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第31話 再会

「仕込み、ゼロ時間」という魔法の言葉は、またたく間に食の市場を席巻した。

佐伯がぶち上げた『鰻八』のビジネスモデルは、もはや「飲食店」ではなく「完成された投資商品」だった。

「職人修行に十年? 炭火の扱いに一生? そんなものは古い時代の呪縛です。私のシステムなら、昨日まで包丁を握ったこともないバイトが、初日から名店と同じ味を出す。原価率は極限まで抑えられ、回転率は老舗の三倍。これが儲からないはずがないでしょう?」

その扇動的なプレゼンに、食い詰めた個人オーナーから、多角化を狙う企業投資家までが、狂ったように飛びついた。

「加盟させてくれ」「うちのエリアを独占契約したい」

本部にはフランチャイズ加盟の希望が殺到し、佐伯の電話は鳴り止むことがなかった。

わずか数ヶ月で、全国の主要都市に『鰻八』の派手な看板が乱立した。

初期投資が低く、誰でも運営できる。仕込みがないから、朝から晩まで店を開けておける。

佐伯は、都心の最高級ホテルのスイートルームを拠点に、次々と契約書に判を押し、莫大なロイヤリティを吸い上げていった。

「蓮見、君が見ている景色とは違うだろう。これが『時代の速度』だ」

佐伯は、シャンパングラス越しに、眼下に広がる街の灯りを見下ろした。

あちこちに、自分の仕掛けた『鰻八』の店舗が、毒々しいほど鮮やかな光を放っている。かつて蓮見が「味」や「真心」にこだわって、一歩ずつしか進めなかった道を、佐伯は圧倒的な資本とシステムで、一気に飛び越えてみせたのだ。

メディアは『鰻八』を「鰻業界の黒船」と呼び、佐伯を「食の革命児」と讃えた。

SNSでは「コスパ最強」「待たずに食える」という称賛が溢れ、加盟店オーナーたちは、次々に振り込まれる売上に、自分たちもまた時代の勝者になったのだと錯覚した。

だが、その狂騒の裏側で、佐伯が切り捨てた「無駄」は、静かに、しかし確実に腐食を始めていた。

仕込みをせず、ただ解凍して焼くだけの現場。そこには「料理」への敬意も、「客」への想いも、欠片も宿る隙がなかった。バイトはタイマーが鳴るのを待つだけの機械となり、オーナーたちは数字だけを追い、肝心の鰻の質が、過密な供給体制の中でじわじわと劣化していることに、誰も気づこうとしなかった。

その喧騒から遠く離れた愛媛の駅に降り立った蓮見は、ホームの静寂の中に立っていた。

鞄に忍ばせた、二年間研ぎ続けた包丁。

そして、仕込みに二年の歳月をかけた、一人の男の魂。

佐伯が全国に数千店舗を広げ、何万食という「効率」を売り捌いている間に、蓮見はたった一皿の、しかし「本物」の餃子を作るためだけに、自らの人生を削り出してきた。

「……仕込みに、終わりなんてない」

蓮見は、海沿いの町へ続く道を歩き始めた。

都会で膨れ上がった佐伯の虚城が、いつか音を立てて崩れることなど、今の彼にはどうでもよかった。

彼が求めているのは、世界を支配するシステムではない。

ただ一人、恵美という女性の舌に、自分の二年間が、そしてこれからの人生が、受け入れられるかどうか。

松山駅の改札を出て、潮の香りが混じった風を頬に受けながら、蓮見は震える手でスマートフォンを取り出した。

二年間、一度も呼び出すことのなかった番号。

その間に、蓮見の身体からは添加物の毒が抜け、手には職人のマメができ、心には「5個200円」の重みが刻まれた。自分を律するために、あえて断ってきた繋がりだった。

呼び出し音が、静かな駅の喧騒の中に響く。

三回、四回……。

呼吸を止めて待つ蓮見の耳に、微かなノイズと共に、忘れもしないあの声が届いた。

「……もしもし」

恵美の声だった。

高松の路地裏で、共に汗を流していたあの頃と変わらない、穏やかで、けれど芯の強い響き。

「恵美、俺だ。……蓮見だ」

喉の奥が熱くなり、言葉を絞り出すのが精一杯だった。

「今、松山に来ている。駅に着いたところだ」

電話の向こうで、恵美は静かに息を呑んだ。

彼女はこの二年間、蓮見がどうしているか、本当は心配で仕方がなかった。一条の事件の後、彼がどれほどの絶望の中にいたかを知っていたから。

何度も、声をかけようとした。

何度も、高松へ向かおうとした。

だが、彼女はあえてそれをしなかった。

(今、私が助けに行ったら、あなたはきっと、また私に甘えてしまう……)

蓮見が本当の意味で自分の罪を咀嚼し、あの頃の「職人の目」を取り戻すためには、孤独な時間が必要だと信じていたからだ。彼女もまた、この日が来るのを、信じて待ち続けていた。

「……そう。来たのね」

恵美の声は、驚きよりも、どこか安堵を含んでいた。

「二年も、長かったわね」

「ああ。……長かった」

蓮見は、駅前の広場を見つめながら応えた。

都会では、佐伯が『鰻八』という虚飾の城を築き、何百という加盟店を従えて絶頂を極めている。ニュースを見れば、かつての自分の影を追うような男の成功が踊っている。

だが、今の蓮見にとって、そんなことはもう遠い国の出来事のように思えた。

自分には、鞄の中の包丁と、この二年間で掴み取った「味」がある。

「恵美、確認してほしいんだ。……俺の作ったものが、まだ『食べもの』であるかどうかを」

「……分かったわ。場所を教えるから、そこへ来て」

電話を切った後、蓮見は深く、深く息を吐き出した。

いしづちの揺れよりも激しく、胸が脈打っている。

自分を追い込み、泥を啜って生きてきた二年の歳月。そのすべてが、これからの一皿に集約される。

恵美に甘えるためではない。

彼女に「本物」だと認めてもらうために。

蓮見は、指定された住所を胸に刻み、伊予鉄の乗り場へと歩き出した。

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