第30話 欲望のサイクル
一方、佐伯にとってのこの二年は、高松の路地裏で起きた惨劇など、とうの昔にゴミ箱へ放り込まれた古いキャッシュデータに過ぎなかった。
彼は今、都心の超高層ビルにオフィスを構える新進気鋭のフードコンサルティング会社で、執行役員として辣腕を振るっていた。あの夜、絶望に打ちひしがれる蓮見を車のライトで照らし出し、嘲笑と共に去っていったあの日から、彼のキャリアはさらに加速している。
「蓮見……? ああ、そんな名前の素材も扱いましたね」
佐伯は、最新のタブレットを滑らせながら、事務的に笑った。
彼が今、手掛けているのは「一過性の熱狂」を意図的に作り出し、最大風速で利益を回収する、逃げ足の速いビジネスモデルだ。
「今の市場に、五年も十年も続く『味』なんて必要ありませんよ。消費者が求めているのは、栄養でも伝統でもない。……『今、この瞬間に加担している』という、デジタルな承認欲求を満たすための記号です」
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佐伯の仕掛ける店は、瞬く間に街の風景を塗り替えていった。
ヘルシーという免罪符を極彩色のトッピングでデコレーションしたアサイーボール。
若者たちの虚栄心を、透明で冷たい砂糖の膜でコーティングしたイチゴ飴。
そして、刺激という名の暴力をスタイリッシュな空間でパッケージ化した麻辣湯。
どの店も、オープン初日には何百人という行列ができる。だが、そこにはかつての「ひまわり食堂」にあったような、店主と客の心の交流など微塵もない。
あるのは、SNSにアップするための写真を撮り終えた瞬間、価値を失い捨てられる使い捨ての「体験」だけだ。
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「経営とは、常に新陳代謝ですよ」
佐伯は、高級なイタリア製スーツの袖口を整えながら、窓の外を見下ろした。
彼のオフィスからは、街のあちこちで自分が仕掛けた「ブーム」が、毒々しい花のように咲いているのが見える。
数ヶ月もすれば、これらの店は跡形もなく消え、また新しい「刺激」に取って代わられる。佐伯はそれを「最適化」と呼んだ。
かつて蓮見が、一条えみりと共に追い求めた「毎日食べても飽きない、5個200円の味」。
佐伯にとって、それはビジネスにおける最大の禁忌であり、不機嫌なほどに非効率な「ガラクタ」だった。
彼が作るシステムは、人々を中毒にさせ、飽きさせ、また次の刺激を渇望させる。その「欲望のサイクル」を加速させることこそが、彼の生存戦略だった。
「蓮見は今頃、どこかの路地裏で野垂れ死んでいるか……。それとも、まだ自分の罪を数えながら泥を啜っているのか」
佐伯は、手元のイチゴ飴を一本手に取り、その冷たい甘みを噛み砕いた。
その瞳には、誰かを愛した記憶も、一条の痛ましい最期も、何一つ残っていない。
彼にとって、食とは、人間とは、ただの「市場を回すための数値」でしかない。
高松の市場で、泥にまみれてキャベツを運び、本当の甘みを知った蓮見。
都会の頂上で、虚飾の甘みを売り捌き、価値を粉砕し続ける佐伯。
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「いいですか、私のビジネスに『職人の勘』などという不確かな変数は必要ない。必要なのは、時給千円のバイトと、私が開発したオペレーション・マニュアルだけだ」
都心の超高層ビル、防音の効いた会議室で、佐伯は磨き上げられた革靴を組み替え、冷徹な笑みを浮かべていた。
『鰻八』の店舗には、包丁一本すら置いていない。鰻は海外の巨大工場で、骨抜きから蒸し、一次焼きまでを済ませ、特殊な急速冷凍を施されて届く。店舗のバイトがやるべきことは、真空パックを破り、専用のコンベア式電気焼成機に並べるだけ。
「仕込み、ゼロ時間」
それが佐伯の誇る、究極の合理化だった。
鰻屋の命とも言えるタレさえも、タンクから自動で噴霧される。炭を熾す手間も、タレを継ぎ足す伝統も、すべては「コストの無駄」として削ぎ落とされた。開店から五分後には、老舗なら数十分待たせるはずの鰻重が、完璧に「それらしい形」で提供される。
「客が求めているのは、『早く、安く、鰻を食べたという事実』を手に入れることです。バイトがボタンを押すだけで、AIが算出した『人類が最も美味しいと感じる焼き加減』が再現される。これこそが食の民主化ですよ」
当初、その目論見は的中したかに見えた。
提供時間の圧倒的な速さと、人件費を削りに削った低価格。SNSには、バイトがマニュアル通りに盛り付けた「均一な美しさ」の鰻が並んだ。




