第29話 審判
蓮見は、自室の古びた流し台の前に立ち尽くしていた。
目の前には、今しがた焼き上がったばかりの一皿がある。市場の仲間たちは「これ以上のものはない」と絶賛し、熊代さんは「俺なら毎日食う」と笑ってくれた。
だが、蓮見の心は凪のようにはいかなかった。
(……本当に、これでいいのか?)
自分の舌が捉えているこの味は、果たしてあの「5個200円」の真髄に辿り着いているのか。あるいは、自分という罪人が、赦されたいと願うあまりに作り出した「独りよがりの幻想」ではないのか。
「ハスミ」を巨大な帝国に押し上げた時の自分なら、こんな迷いは抱かなかっただろう。市場データと原価計算、そして大衆が好む「分かりやすい刺激」を重ねれば、それが正解だと信じて疑わなかった。
しかし、今の蓮見は知っている。
味とは、単なる化学反応ではない。それは、差し出す者と食べる者の間に流れる、目に見えない「信頼」そのものだ。
◆
自分がかつて捨て去り、踏みにじり、そして今は亡き一条えみりが命を懸けて守ろうとした「あの味」。その正しさを証明できる人間は、この世にたった一人しかいない。
(恵美……。君だけだ。君だけが、俺の『本当』を知っている)
高松の潮風を浴びながら汗を流した、あの若き日。
「少しキャベツの水分が多いかな」「いや、この方がジューシーだよ」
そう言い合いながら、狭い厨房で額を突き合わせて作った、あの時の記憶。
もし彼女に食べさせて、彼女が首を振るのなら、自分のこの二年間も、この手にある包丁も、すべてはただのまやかしだったということだ。その時は、今度こそこの手で、すべてを終わらせる。
恐怖が、蓮見の背中を冷たく撫でた。
二年間、泥にまみれて鍛え上げたはずの身体が、かつての不祥事の時よりも激しく震えている。
だが、その震えこそが、彼が「職人」として、そして「一人の男」として再生しようとしている証でもあった。
◆
「……行こう」
蓮見は、新聞紙と布で厳重に包んだ包丁を鞄の奥に押し込んだ。
それはもはや凶器ではなく、自らの人生の審判を受けるための、唯一の証言者だった。
安アパートの鍵を閉め、一度も振り返ることなく駅へと向かった。
向かうは、四国を西へ。
かつて自分が捨てた「自分自身」を、そして最愛の妻であり、最高の理解者であった恵美を見つけ出すために。
予讃線の車窓から見える瀬戸内海は、あの日、一条えみりと岡島が消えた海と同じ色をしていた。
だが、蓮見はもう目を逸らさなかった。
◆
特急「いしづち」の車内は、夕刻の静かな熱を孕んでいた。
蓮見は、窓の外を流れる伊予の山々を、ただ黙って見つめていた。かつて、高級外車から眺めていた世界は、どこか現実味のない絵画のようだった。だが今は、列車の揺れが、線路の継ぎ目の音が、ダイレクトに自分の骨身に響く。
二両編成の小さな特急。高松から松山へ向かう、そのわずか二時間の旅路が、蓮見には果てしない地獄への入り口のようにも、あるいは唯一の出口のようにも感じられた。
(……俺に、その資格があるのか)
鞄の中には、二年間研ぎ続けた包丁がある。
市場の男たちが「旨い」と喉を鳴らした餃子のレシピがある。
だが、そのすべてを否定される恐怖が、土色の顔をさらに強張らせていた。
◆
蓮見は知っている。自分の舌は、まだ完全に「白」ではないことを。
添加物に焼かれたあの頃の記憶。佐伯の冷徹な声。一条えみりの絶望的な微笑み。それらが味覚の奥底に澱のように沈んでいて、時折、試作の餃子に「傲慢」という名の毒を混ぜ込もうとするのだ。
この味は、本当に正しいのか。
それとも、また俺は、自分に都合の良い「正解」を捏造しているだけではないのか。
その答えを、恵美だけが持っている。
彼女と二人、深夜の厨房で、キャベツの刻み加減一つに一晩を費やしたあの頃。
「蓮見さんの餃子にはね、毒がないの。だから毎日食べられるのよ」
恵美が笑って言った、あの言葉。
今の自分の餃子に、毒はないだろうか。
罪悪感や、自己満足という名の毒が、恵美の繊細な舌を傷つけはしないだろうか。
◆
「……っ」
蓮見は、不意に襲ってきた吐き気に似た緊張感に、口元を押さえた。
特急が、今治を過ぎる。
車窓には、一条えみりと岡島が消えた、あの凪いだ瀬戸内海が広がっていた。
夕陽が水面を朱に染め、すべてを飲み込んでいく。
あの日、自分はすべてを失った。
地位も、名誉も、そして最も信頼すべきだった相棒さえも。
残ったのは、泥にまみれたこの手と、一振りの包丁だけだ。
もし、恵美に会って、彼女が一口食べた後に「……違う」と呟くのなら。
その時は、この包丁を二度と握ることはない。
自分は一生、高松の市場の片隅で、名もなき石のように朽ちていくだけだ。
自信なんて、最初からなかった。
あるのは、彼女にだけは「本当」を確認してもらわなければならないという、逃れようのない強迫観念だけだった。
◆
「次は、終点、松山。松山です……」
車内アナウンスが、審判の時を告げる。
蓮見は、泥と油で硬くなった自分の指先をじっと見つめ、それから深く、深く息を吐き出した。
鞄を握りしめる手に、じっとりと汗が滲む。
いしづちがスピードを落とし、松山の街の灯りの中へと滑り込んでいく。
かつて、共に夢を追った女性。
そして、自分が最も無惨に裏切った、最後の理解者。
蓮見は立ち上がり、列車のドアの前に立った。
そこには、黄金の檻も、添加物の虚無もない。
ただ、一人の「職人」として、自らの命運を、かつての妻の舌に委ねるための、最後の戦場が待っていた。




