第28話 5個200円の正体
午前三時の市場は、巨大な生き物の臓腑のようだった。
けたたましく響くターレットトラックのエンジン音、飛び交う怒号に近い競りの声。そこには、蓮見がかつて数字とデータだけで支配していた「流通」という言葉では片付けられない、剥き出しの命のやり取りがあった。
「おい、蓮見! ボサッとするな、こっちのコンテナを先に積め!」
仲卸の親父、熊代の声が飛ぶ。かつての蓮見なら、その荒っぽさを「非効率な旧弊」と切り捨てていただろう。だが今の蓮見は、軍手から滲む汗を拭う暇もなく、「はい!」と短く応えて腰を落とす。
重い。
だが、その重さが心地よかった。
自分の腕に伝わるキャベツの重み、土の匂い、そして隣で同じように汗を流す男たちの荒い呼吸。
経営者時代、自分は冷暖房の効いたオフィスで、誰が、どんな思いでこの重荷を運んでいるのかなど、考えたこともなかった。自分を「選ばれた人間」だと思い込み、ふんぞり返っていた過去が、鏡を見るよりも鮮明に、そして醜く脳裏に焼き付いている。
◆
「……自分は、何も見ていなかったんだな」
休憩時間、自販機の安い缶コーヒーを啜りながら、蓮見は熊代の横顔を見た。
熊代は、傷んだ野菜を見つけると「こいつは農家さんが一生懸命育てたんだ。外側だけ剥いて、刻んで浅漬けにすりゃ十分美味いんだよ」と言って、大事そうに脇に置く。
その手は、ひび割れ、泥が染み込み、決して綺麗とは言えない。だが、その手こそが、誰かの食卓を支えている「本物の職人の手」だった。
「蓮見さん、あんた最近、いい顔になってきたな」
熊代が不意に、煙草の煙を吐き出しながら言った。
「最初に来た時は、死神が迷い込んできたかと思ったが……。今は、ちゃんと野菜と向き合ってる。野菜を『物』じゃなくて、『食い物』として見てる目だ」
「……ありがとうございます」
蓮見は、短く応えて頭を下げた。
初めて、人として認められた気がした。
肩書きも、年収も、過去の栄光も関係ない。ただ、目の前の野菜を大切に運び、泥にまみれて汗を流す。その「働き」だけで評価される世界が、添加物で麻痺していた彼の心を、ゆっくりと、けれど確実に洗い流していた。
◆
半年が過ぎ、身体の毒が抜けきったと感じたある夜。
蓮見はアパートの流し台で、自分の手をじっと見つめた。
爪の間に消えない泥が入り、手のひらにはいくつもの肉刺ができている。一条の父親が、そしてひまわり食堂の主人が持っていたのと同じ、労働者の手だ。
(……今なら、あの人に合わせる顔があるだろうか)
心の奥底に、ずっと仕舞い込んでいた名前が浮かぶ。
「恵美……」
彼女は今、愛媛で、自分が一度は捨てたはずの「本当の家族」と向き合っているはずだ。
自分が壊した数々の人生。その罪が消えることは決してない。だが、逃げるのではなく、この泥にまみれた手で、もう一度だけ、彼女に会わなければならない。
それは、よりを戻すためでも、許しを乞うためでもない。
ただ、自分が「5個200円の重み」を理解できる人間になったことを、そして、もう一度だけ、誰かを笑顔にするための料理を作りたいと願っていることを、伝えなければならなかった。
◆
蓮見は、洗濯したての、しかし着古したシャツに袖を通した。
かつての高級ブランドではない。けれど、今の彼にはそれが一番しっくりときた。
夜明け前の市場の喧騒を背に、蓮見は駅へと向かった。
向かうは、愛媛。
まだ味覚は完全ではないかもしれない。けれど、彼の胸の中には、あの日恵美と一緒に刻んだキャベツの音が、はっきりと響いていた。
蓮見は駅の改札を前にして、不意に足を止めた。
ポケットの中の切符が、ひどく重く、そして場違いなものに感じられた。
(……まだだ。まだ、早い)
今の自分は、ようやく泥を落とし、人としての呼吸を思い出したに過ぎない。
熊代さんに「いい顔になった」と言われた。市場の連中と笑い合えるようにもなった。だが、それはあくまで「荷揚げの蓮見」としての姿だ。
恵美が最後に見ていたのは、高松の路地裏で、5個200円の餃子を必死に包んでいた若き日の蓮見だ。そして、彼女が最も絶望したのは、その「原点」を金と効率で塗り潰した蓮見の姿だったはずだ。
今の自分に、彼女に食べさせられる「味」があるだろうか。
ただ素材を茹で、素材の味を知っただけ。それはまだ「料理」ではない。
◆
蓮見は踵を返し、再びアパートへの道を歩き出した。
市場での労働を続けながら、彼は本格的な試作に没頭することを決めた。
それからの日々は、これまでの人生で最も孤独で、かつ最も密度の濃い時間となった。
市場での仕事を終えた後、蓮見はスーパーで安売りの豚挽肉と、強力粉を買って帰る。
かつては「最高級のアグー豚」だの「独自配合の小麦粉」だのと騒ぎ立てていたが、今は違う。どこにでもある、名もなき食材を、自分の腕だけでどこまで高められるか。それが彼に課された修行だった。
◆
アパートの狭い台所で、彼は皮から打ち始めた。
粉と水を合わせ、耳たぶほどの硬さになるまで、全体重をかけて練り上げる。
手が、筋肉痛で悲鳴を上げる。だが、生地を捏ねる感触が、そのまま自分の荒んだ心を平らにならしていくようだった。
「……やり直しだ」
打ち上がった皮は、厚すぎたり、破れたりした。
かつてのハスミの工場なら、一秒間に数千枚、完璧な形の皮が吐き出されていた。だが、一枚一枚、手で伸ばす皮には、その日の蓮見の心の揺れがそのまま現れる。
「……やり直し」
一週間、皮だけを打ち続けた。
ようやく、薄くて弾力があり、餡の水分をしっかりと受け止める「器」としての皮が出来上がった時、蓮見は初めて、誰に見せるでもなく小さく頷いた。
◆
次は、餡だ。
市場で手に入れた、甘みの乗ったキャベツ。それを、包丁の重みだけで刻んでいく。
「ハスミ」の餃子は、肉の比率を高め、背脂を注入して「中毒性」を出していた。だが今の彼が目指すのは、それとは正反対の場所にある。
キャベツの水分を、塩で殺さない。
肉の脂で、野菜の甘みを閉じ込める。
調味料は、最低限の塩と醤油、そしてわずかな胡椒だけ。
「……っ」
焼き上がった試作品を一口食べた瞬間、蓮見は箸を止めた。
かつての自分の舌なら、これを「パンチが足りない」と切り捨てただろう。
だが、今の味覚は教えてくれる。キャベツの芯から溢れる、大地の滋味。それを追いかけるように、安価な肉が、精一杯の旨味を主張している。
それは、5個200円の「正体」だった。
贅沢品ではない。けれど、明日もまた頑張ろうと思える、温かい日常の味。
◆
蓮見は、その味を確かめながら、一条えみりの父親を思った。
あの男も、こうして毎日、自分の舌を頼りに、名もなき客たちのために鍋を振っていたのだ。
自分に「嘘」を吹き込まれ、復讐に燃えていたえみりも、子供の頃はこの味を食べて育ったのではないか。
(えみりさん……これが、あなたの家から俺が奪ったものだ)
蓮見は、涙で味が分からなくなるまで、その餃子を噛み締めた。
自分の身体の中に、ようやく「職人」としての火が灯った。
だが、まだ足りない。
この味が、誰かの心を動かす本物であるという確信を得るまでは、恵美の元へは行けない。
蓮見は、市場の熊代さんのところへ、一皿の餃子を持っていくことに決めた。
自分を「人」として見てくれたあの男に、自分の「魂」が戻ったかどうかを、審判してもらうために。




