第27話 味のしない餃子
蓮見は、一ヶ月も履き続けて汚れきったスニーカーの紐を締め直した。立ち上がるたびに眩暈がし、視界の端にはチカチカと火花のような光が舞う。添加物で蝕まれた身体は、外の空気を吸うことさえ拒絶しているようだった。
安アパートの重いドアを開けると、高松の湿った春の風が、容赦なく彼の鼻腔を突いた。
「……っ」
かつては高級車の革シートの香りに包まれていた鼻に、街の生活臭が突き刺さる。排気ガス、側溝の湿り気、どこかの家から漂う夕飯の仕込みの匂い。五感が戻り始めている証拠だが、それは同時に、逃げ場のない現実が押し寄せてくる合図でもあった。
◆
蓮見が向かったのは、華やかな駅前通りではなく、細い路地の奥にある、老婆が一人で営んでいるような小さな八百屋だった。
店先に並ぶ野菜は、かつて「ハスミ」のセントラルキッチンが仕入れていた完璧な形状のものとは程遠い。土がこびりつき、葉先が茶色く変色し、不揃いな形をした「規格外」の山。
蓮見は、その山の隅に置かれた、見切り品の籠に目を留めた。
そこには、外葉が剥がされ、ひどく小ぶりになったキャベツが二玉、五十円という殴り書きの値札と共に転がっていた。
「……これ、ください」
掠れた声で老婆に差し出したのは、震える指で掴んだ百円玉だった。
老婆は、蓮見の土色の顔を不審そうに眺めながらも、無造作に新聞紙でキャベツを包んだ。
「あんた、顔色が悪いねえ。しっかり食べなよ」
「……はい」
その何気ない言葉が、今の蓮見には刃のように刺さった。
しっかり食べる。
その当たり前のことが、どれほど贅沢で、どれほど尊いことか。
一条えみりの父親も、身体を壊す前は、こうして誰かに「しっかり食べろ」と料理を出していたのだろうか。
◆
アパートへ戻る道すがら、腕の中に抱えたキャベツの重みが、妙に生々しく感じられた。
新聞紙越しに伝わる、野菜の冷たさと、かすかな土の匂い。
それは、カップ麺のプラスチック容器からは決して感じることのなかった、「命」の重みだった。
部屋に戻り、蓮見は流し台の前に立った。
包丁を握る。
手が、恐ろしいほどに震えていた。
キャベツの芯を抜こうと刃を立てるが、距離感が掴めない。視界が歪み、包丁の重さが数倍にも感じられる。
「……くそっ」
かつて一分間に何百回と刻んだ、あのリズムが思い出せない。
身体が、味覚が、そして魂が、添加物と絶望という名の「安易な毒」に侵され、職人としての自分を拒絶している。
◆
彼は無理やりキャベツの葉を一枚剥いだ。
包丁を入れようとしたその時、ふと、一条えみりのあの言葉が蘇った。
『社長、ハスミの餃子は、完成されすぎていて隙がありませんね』
あの時、彼女は褒めていたのではない。
システムの歯車として磨き上げられ、人の手の温もりを失った自分の料理を、静かに嘲笑っていたのだ。
蓮見は、震える手でキャベツを刻み始めた。
トントン、という音ではない。ガチ、ガチ、という、硬く、不器用な、岩を削るような音。
美しくはない。だが、それが今の、すべてを失った「ただの男」が奏でられる、精一杯の音だった。
刻まれたキャベツの切り口から、青臭い香りが立ち上がる。
その香りに、蓮見は不意に涙がこぼれそうになった。
「5個、200円……」
まだ、肉も、皮も、調味料もない。
ただ、五十円で買った傷物のキャベツが、まな板の上に散らばっているだけだ。
だが、蓮見は止まらなかった。
指先から血が滲んでも、眩暈で膝をついても、彼は刻み続けた。
自分が犯した罪の数だけ、キャベツを刻む。
その音だけが、死んだ二人への、届くはずのない鎮魂歌のように、狭いアパートの壁に反響していた。
◆
刻んだキャベツに、なけなしの金で買った安い挽き肉と、僅かな調味料を混ぜ合わせる。
蓮見の手は、かつての流麗な動きを失い、泥をこねるように重かった。
アパートの古びたガスコンロに火をつけ、薄いフライパンで一列だけ、餃子を焼く。
パチパチという油の爆ぜる音が、静まり返った六畳一間に響いた。かつては何万食と焼いてきたはずの、聞き慣れた音。だが今の蓮見には、それが自分を糾弾する拍手のように聞こえた。
やがて、焼き上がった。
かつての「ハスミ」の餃子のような、完璧な黄金色の羽根はない。形も不揃いで、ところどころ皮が破れ、中のキャベツが顔を覗かせている。
◆
蓮見は、震える箸でその一つを口に運んだ。
「……っ」
咀嚼する。だが、何も感じない。
口の中に広がるのは、熱さという物理的な刺激だけだった。
本来なら感じるべき、キャベツの甘みや、肉の脂の旨味、ニンニクの香りが、霧の向こうに隠れたように実体を結ばない。
「……分からない」
もう一口、無理やり胃に流し込む。
しかし、舌が記憶しているのは、一ヶ月間食べ続けたカップ麺の、あの強烈な化学調味料の刺激だけだった。
繊細な素材の味を受け付けるための味蕾は、保存料と安酒の毒によって、完全に麻痺していた。
(……美味しいのか、これは? それとも、ただの生ゴミか?)
自分の舌が信じられない。
職人にとって、味覚を失うことは、暗闇の海を地図なしで漕ぎ出すことに等しい。
かつては「この0.1パーセントの塩分が味を左右する」と豪語していた男が、今、目の前にある一個の餃子の正体すら掴めない。
◆
絶望が、冷たい汗となって背中を伝った。
味の良し悪しが分からない人間に、「5個200円」で人を幸せにする権利などあるはずがない。
自分は、一条えみりから復讐されるまでもなく、すでに「食」を司る資格を、自らの怠惰と絶望によって剥奪されていたのだ。
蓮見は、残りの餃子を皿に置いたまま、力なく床に座り込んだ。
(えみりさんは……俺がこんな味の分からない男になったと知ったら、笑うだろうか)
いや、彼女ならきっと、憐れみすら見せないだろう。
『社長、それがあなたの選んだ結果ですよ』
そんな冷ややかな声が、換気扇の回る音に混じって聞こえた気がした。
味のしない食事を続ける。
それは、今の蓮見にとって、死よりも残酷な刑罰だった。
かつて奪った「ひまわり食堂」の味。
一条の父親が守り抜こうとした、あの「5個200円」の重み。
それを理解するために最も必要な道具を、彼は自ら壊してしまった。
◆
蓮見は、流し台に置かれた、まだ半分残っているキャベツを凝視した。
味覚が死んでいるなら、身体が思い出すまでやるしかない。
たとえ、それが何百回、何千回の無意味な試作になろうとも。
彼は再び立ち上がり、水で口をゆすいだ。
カルキ臭い水が、焼けたような喉を通る。
今、この男に残された唯一の道は、添加物の毒が抜けるまで、自分の不器用な舌と、向き合い続けることだけだった。
蓮見は、味のしない餃子を無理やり胃に流し込むと、力なく箸を置いた。
腹を満たすためではなく、ただ生きるための作業。今の自分は、空になったカップ麺の容器と同じだ。中身は何もなく、ただそこに転がっているだけのゴミ。
だが、五十円のキャベツを使い切れば、もう次の食材を買う金はない。安アパートの家賃も、光熱費も、死を待つための執行猶予のような残金は、いよいよ底を突きかけていた。
「……働かなきゃな」
独り言が、冷たい壁に跳ね返る。
蓮見は、一ヶ月以上放置して毛玉のついたスラックスを履き、顔を洗った。鏡の中の男は、かつて経済誌の表紙を飾った「時代の寵児」とは別人だった。土色の肌に、光を失った目。どこにでもいる、人生に破れた中年男がそこにいた。
◆
ハローワークへ向かう道中、蓮見は何度も立ち止まった。
街のあちこちに、かつて自分が作り上げた「ハスミ」のロゴが、剥がしきれないシールのように残っている。それを見るたび、一条の冷ややかな視線と、岡島の断末魔のような叫びが蘇り、眩暈がした。
ハローワークの待合室は、独特の沈滞した空気が流れていた。
番号を呼ばれ、仕切り板一枚で区切られた相談ブースに座る。
「……蓮見、さんですね。前職は……飲食業の経営、ですか」
若い職員が、蓮見の経歴書と顔を交互に見た。かつての輝かしい社名は、今や検索すれば「不祥事」「偽装」「心中」といった言葉がセットで出てくる呪いの名前だ。職員の目が、わずかに鋭くなったのを蓮見は見逃さなかった。
「調理の経験があるなら、厨房の仕事もありますが……。ただ、この年齢で、しかも経営者となると、現場の方は少し敬遠されるかもしれません」
「何でもいいんです。……皿洗いでも、ゴミ拾いでも」
蓮見の声は掠れていた。
職人としてのプライドなど、高松の海に沈めた。今の彼が求めているのは、自分を誇示するための仕事ではなく、自分の罪を忘れさせてくれるような、無心になれる苦役だった。
◆
数枚の求人票を渡された。
その中の一枚に、蓮見の手が止まる。
『早朝の青果市場。荷揚げ・清掃。日払い可』
かつての彼なら、見向きもしなかった仕事だ。
だが、その文字を見た瞬間、岡山の中華屋の軒下で嗅いだ、あの湿った土の匂いを思い出した。
添加物まみれの身体を動かし、汗を流し、泥にまみれる。そうしなければ、自分の体内に溜まった「毒」はいつまでも抜けないような気がした。
「……ここ、お願いします」
「ここですか? 相当きついですよ。体力には自信が……」
「ありません。でも、やらなきゃいけないんです」
職員は怪訝そうな顔をしながらも、紹介状を書き始めた。
◆
帰り道、蓮見はコンビニの横を通った。
以前なら無意識に手が伸びていたカップ麺の棚。だが、今はその派手なパッケージを見るだけで、胃の底が熱くなる。
彼はそれを素通りし、一軒の薬局に入った。買ったのは、安売りの石鹸一つだった。
明日から、泥にまみれる。
かつて奪った、一条の父親の人生。中華屋を畳み、静かにこの世を去った、あの男の無念の、その端っこにだけでも触れなければならない。
アパートへ戻ると、蓮見は流し台で自分の手を洗った。
餃子の油ではなく、泥と汗で汚れる準備。
まだ味覚は戻らない。けれど、明日からの労働で流す汗が、少しずつでも自分の「味」を取り戻すための代償になることを、彼は願わずにはいられなかった。




