第26話 5個、200円
岡山駅へと向かう帰路、蓮見の足取りは、往路よりもさらに重く、泥の中を歩いているようだった。
ガタゴトと揺れる瀬戸大橋線の車内で、彼はただ一点を見つめていた。
ひまわり食堂の主人が吐き捨てた、あの言葉が耳から離れない。
「5個、200円……」
蓮見は、乾いた唇でその数字をなぞった。
胸の奥を、熱い塊がせり上がってくる。
それは、彼がまだ高松の路地裏で、恵美と二人、汗にまみれて中華鍋を振っていた頃の値段だった。
あの頃、自分は何を求めていたのか。
ただ、目の前の客が「美味い」と言って笑ってくれる、その一瞬のために生きていたはずだった。
それがいつの間にか、1皿の「価値」を演出し、希少性を煽り、効率という名の「規約」で、ひまわり食堂のような場所を囲い込んできた。
(……俺は、何にふんぞり返っていたんだ)
◆
窓ガラスに映る自分は、土色の顔をした、ただの衰弱した男だ。
自分の「成功」の裏側で、一条の中華屋のような店が全国にどれほどあっただろうか。
自分が「地方活性化」という耳障りのいい言葉を並べている影で、どれだけの職人の手が止まり、どれだけの家族の食卓が凍りついたのか。
佐伯が作ったシステムに乗っかり、それを自分の才能だと過信して、踏みにじられた者たちの悲鳴にさえ気づこうとしなかった。
一条えみりの復讐も、岡島の狂気も、ひまわり食堂の老人の絶望も。
すべては、自分が「5個200円」の重みを忘れた時から、必然として動き出していたのだ。
◆
高松駅に降り立った蓮見を、潮の香りと夜の冷気が迎えた。
安アパートへ戻る道すがら、彼はコンビニの灯りを見つめた。
棚に並ぶ、色鮮やかなパッケージ。保存料と甘味料で塗り固められた、便利な食事。
一ヶ月以上、自分の身体に流し込んできたその虚無の味が、今は吐き気がするほど忌まわしかった。
(やり直せるのか……。こんな、人を死なせた手が……)
◆
アパートの錆びた階段を上り、ドアを開ける。
冷え切った六畳一間には、まだ添加物の匂いが淀んでいた。
蓮見は、部屋の隅に放り出されていた手提げ鞄から、一本の包丁を取り出した。
使い古され、何度も研ぎ直して形が変わった、自分の相棒。
一度は捨てようとし、佐伯の前でこぼれ落ちたその鉄の塊を、彼は今、震える手で握りしめた。
「……やり直す、なんて。おこがましいよな」
独り言が、冷たい空気の中に溶ける。
だが、彼はそのまま万年床に倒れ込むことはしなかった。
床に散らばっていたカップ麺の容器を、一つ、また一つとゴミ袋に放り込んだ。
身体は悲鳴を上げ、眩暈で世界が回っている。それでも、彼は動いた。
自分を蝕んでいた「毒」を掃き出し、空っぽになった胃を抱えて、彼は流し台の前に立った。
蛇口をひねり、冷たい水で何度も顔を洗う。
鏡に映った自分の瞳に、わずかな、本当にわずかな光が戻っていた。
それは再生への希望などという輝かしいものではない。
自分が犯した罪を、死ぬまで背負い続けるための、覚悟の光だった。
◆
「5個、200円……」
もう一度、その言葉を飲み込む。
明日の朝、この身体が動くなら。
もし、まだ自分の舌が「本当の味」を覚えているなら。
蓮見は、包丁を静かにまな板の上に置いた。
その夜、彼は一ヶ月ぶりに、深い眠りに落ちた。
夢は見なかった。
ただ、遠い記憶の中にある、キャベツを刻む規則正しい音だけが、耳の奥でずっと鳴り響いていた。
◆
翌朝、蓮見を揺り起こしたのは、網膜を刺すような安アパートの朝日と、胃の底からせり上がってくる、重く濁った化学調味料の残滓だった。
「……う、ぷ」
洗面所に駆け込み、黄色い液を吐き出す。鏡に映った自分は、死を待つだけの男の顔をしていた。だが、昨日握りしめた包丁の冷たさだけが、手のひらに微かな痛点として残っている。
彼は、一ヶ月以上放置していたゴミ袋を縛った。
指先が震える。カップ麺の容器、安酒の瓶、それらが立てるカサカサという乾いた音が、自分のこれまでの「逃げ」をなじっているようだった。
掃除を終え、水だけで洗ったフローリングに座り込むと、驚くほど部屋が広く感じられた。そして、静寂。かつてタワーマンションで聞いていた高級な静寂とは違う、空腹と罪悪感だけが詰まった、重い沈黙だ。
◆
蓮見は、よろつきながら立ち上がり、台所へ向かった。
蛇口から出る水は、カルキ臭い。だが、それを何度も何度も口に含み、毒を洗い流すように飲み込んだ。
「5個、200円……」
喉が鳴る。その値段で出すためには、今の自分の「見栄」をすべて削ぎ落とさなければならない。
彼は、手提げ鞄の底に眠っていた一冊の古いノートを取り出した。それは恵美と二人で始めた頃の、殴り書きのレシピ帳だった。
ページをめくると、そこには佐伯が持ち込んだ「黄金の配合」ではない、泥臭く、不器用な、しかし血の通った文字が並んでいた。
一番最初のページに書かれていたのは、配合ですらなく、恵美の筆跡による一言だった。
『餃子は、お腹を空かせた人のためのもの。』
蓮見はその文字に指を触れ、声を殺して泣いた。
一条えみりのお腹を空かせ、その父親の誇りを奪い、岡島を闇に突き落とした自分。
彼が「一歩目」として踏み出したのは、近所の小さな八百屋へ、傷物のキャベツを探しに行くことだった。




