第25話 帰ってくれ
崩れかけた「ひまわり食堂」のシャッターが、ひどく耳障りな金属音を立てて、数センチだけ持ち上がった。
蓮見は、地面に這いつくばったまま、その隙間に目を凝らした。
暗がりの奥から現れたのは、かつての「路地裏の英雄」ではない。白髪は伸び放題になり、骨のように痩せこけた老人が、ゴミ袋を抱えて這い出してきた。
かつて、蓮見が「この人の味こそが本物だ」と惚れ込み、世に送り出した店主だった。
「……あ」
蓮見の喉から、掠れた音が出た。
老人は、足元にうずくまる土色の顔をした男を、ひどく濁った瞳で見下ろした。その瞳には、かつて厨房で包丁を握っていた頃の情熱は微塵も残っていない。ただ、深い諦念と、世界への拒絶だけが淀んでいた。
◆
「……蓮見、さんか」
老人の声は、枯れ葉が擦れるような、乾いた響きだった。
蓮見は、震える膝を突いたまま、老人の足元に額を擦り付けた。
「……申し訳、ありませんでした……俺が、俺が全部、めちゃくちゃに……」
老人は、激しく謝罪を繰り返す蓮見を、怒るでもなく、ただ静かに眺めていた。張り紙に書かれた『人殺し』や『詐欺師』という言葉が、今の二人を皮肉に包囲している。
「……あんたが、俺を『特別』なんかにしなけりゃ、よかったんだ」
老人が、ぼそりと呟いた。その言葉は、激昂した佐伯の怒声よりも深く、蓮見の胸を抉った。
「あんたに担ぎ上げられて、分不相応な夢を見た。……偽装だなんだと言われる前から、俺の心は死んでたよ。隣の中華屋が潰れて、親友だったあいつが心を病んで……。俺は、あいつが売っていた五個二百円の餃子より、あんたが売らせた一皿五百円の餃子が美味いなんて、一度も思えなかった」
老人は、力なく首を振った。
「あいつが、静かに、誰にも助けを求めることもできずにこの世を去ったのを、俺は、このシャッターの隙間からしか知らなかったんだ。あんたの作った『規約』とやらで、あいつに何も分けてやれないまま……。……なあ、蓮見さん。俺は、あんたを一生許さない。だが、あんたに選ばれた自分を、もっと許せないんだ」
老人は、抱えていたゴミ袋を地面に置いた。中から、賞味期限の切れたインスタント食品の袋がこぼれ落ちる。蓮見が今、毎日啜っているものと同じ、虚無の匂いがした。
「……帰ってくれ。もう、この路地裏には、食えるもんなんて何も残っちゃいない」
老人は、再び低い音を立ててシャッターを閉めた。
ガチャン、という冷たい音が、蓮見と世界の繋がりを断ち切る最後の音のように聞こえた。
隣で朽ち果てた「一条の中華屋」が、風に吹かれて軋んでいる。
蓮見は、もう立ち上がることさえできなかった。
自分が与えた「助け」が、二人の職人を壊し、一人の女性を死に追いやり、そして今は自分自身の身体を、添加物の毒で蝕んでいる。
夕闇が、路地裏を濃く塗りつぶしていく。
◆
蓮見は、閉ざされたシャッターの前に額を押し付けたまま、動くことができなかった。
「帰ってくれ」という老人の言葉が、冷たい鉄の感触と共に、心臓の奥まで染み込んでくる。
ひまわり食堂の主人が吐き出した言葉。それは、蓮見がこれまで「成功」という名の麻酔でごまかしてきた痛みを、一気に剥ぎ取るものだった。
五個二百円の餃子。
それこそが、この路地裏で人々が本当に求めていた、体温の通った食事だったのだ。
蓮見は、震える手でアスファルトを掴んだ。
指先には、放置されたゴミの脂と、長年降り積もった煤がこびりつく。
自分が佐伯と共に持ち込んだ「システム」は、このささやかな幸せを「非効率」として切り捨てた。隣り合う二つの店が競い、笑い、支え合っていた日常を、フランチャイズ規約という名の無機質な壁で分断した。
その結果が、これだ。
一方は「人殺し」と罵られ、もう一方は「朽ち果てた残骸」となった。
(……俺は、何をしていたんだ)
◆
身体が、内側から悲鳴を上げていた。
一ヶ月以上、カップ麺と安酒だけで繋いできた内臓が、あまりの精神的衝撃に耐えかねて激しく痙攣する。
蓮見は、一条の中華屋だった廃屋の影で、激しく胃液を吐き出した。
口の中に広がるのは、やはりあの人工的な、不自然な後味だった。
「……う、ぐ……」
涙と嘔吐物で汚れ、泥を這うような姿。かつての「餃子王」の面影は、もはやどこにもない。
一条が憎み、佐伯が嘲笑い、岡島が狂わされた「蓮見」という偶像は、今、この路地裏の泥の中で完全に消滅した。
◆
駅へ戻る気力もなかった。
蓮見は、朽ち果てた一条の中華屋の、今にも崩れそうな軒下に身を寄せた。
ここにはもう、誰もいない。一条の父親の無念も、母親の嘆きも、えみりの復讐心も、すべては夜の静寂の中に吸い込まれている。
ふと見上げると、破れた庇の間から、星一つ見えない暗い空が覗いていた。
添加物で蝕まれた身体は、冬でもないのにひどく冷え、感覚を失っていく。
蓮見は、自分がこのまま、この廃屋の一部になって消えてしまえばいいと、心の底から願った。
街灯がチカチカと不規則に点滅し、路地裏の影を深く、長く伸ばす。
その暗闇の奥、かつて一条えみりが毎日歩いたはずのその道から、ゆっくりと近づいてくる人影があった。
だが、今の蓮見はそれに気づくこともない。
ただ、冷たいコンクリートの上で、自分の罪の重さと、添加物に焼かれた胃の痛みだけに耐えながら、うずくまり続けていた。




