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第24話 朽ちた場所

高松の郊外。築四十年の木造アパートの一室には、常に安っぽい油と塩分の匂いが染み付いていた。

蓮見が手放した資産の残骸から、かき集めるように残ったわずかな現金。それが今の彼の、命の期限だった。

六畳一間の畳の上には、空になったカップ麺の容器がいくつも重なっている。

かつてはキャベツの産地にこだわり、豚肉の脂の融点にまで神経を尖らせていた男が、今は三分待つだけで完成する、添加物まみれのスープを啜っている。

「……味が、しないな」

舌の先で感じるのは、暴力的な塩気と、後味の悪い甘みだけだ。

身体は重く、鉛でも詰まったように動かない。立ち上がろうとすると、一条の最期の微笑や、岡島の狂気に満ちた叫び、そして佐伯の冷徹な嘲笑が、泥のように足元にまとわりついてくる。

何かを始めなければならない。そう思ってハローワークのパンフレットを眺めてみるが、文字が滑って頭に入らない。

「職人」としての誇りは佐伯に踏みにじられ、「経営者」としての自信は不祥事と共に消えた。今の自分は、ただの「人殺し」の烙印を(自らの心の中にだけは)押された、生ける屍だ。

(えみりさんは、毎日どんな思いで俺に微笑んでいたんだろう……)

ふと、窓の外を眺める。

そこには、自分がかつて「効率」と「利益」のために塗りつぶした、高松の街が広がっている。

自分が贅沢の限りを尽くしていた時、一条の父親も街のどこかで、壊れた身体を抱えて絶望していたのかと。その事実を思い出すたび、胃の奥から酸っぱいものが込み上げてくる。

自嘲気味に笑い、蓮見はまた一つ、新しいカップ麺の蓋を開けた。

お湯を注ぎ、立ち上がる湯気を見つめる。

かつてひまわり食堂で見た、あの温かく、人を幸せにする湯気とは、あまりにも違う、化学的な匂い。

彼は、自分が「添加物」のように、この社会にとって不必要な、余計な混じり物になったような気がしていた。

身体を壊し、心が死んでいくのを待つだけの、緩やかな自殺。

岡山行きの列車は、瀬戸大橋を渡る間、鈍い鉄の音を響かせ続けていた。

窓ガラスに映る蓮見の顔は、かつての傲慢な光を失い、添加物まみれの食事に蝕まれた土色の肌が、夕刻の光に透けて見えた。

今の彼には、高級スーツも、タワーマンションの鍵も、自分を「先生」と呼ぶ取り巻きもいない。ただ、胃の奥に溜まった安っぽい保存料の味と、消えることのない罪悪感だけを抱えて、彼はこの場所に引き寄せられていた。

駅から少し離れた、記憶の端にこびりついている路地裏。

足を踏み入れた瞬間、蓮見の鼻をついたのは、かつての炒油の香ばしい匂いではなく、雨に濡れて腐った紙と、排気ガスの混じった、沈滞した空気だった。

「……ああ」

声が漏れた。

かつて彼が「路地裏の奇跡」として世に知らしめた「ひまわり食堂」は、今や見る影もなかった。

シャッターには赤いペンキで『偽装』『嘘つき』『責任を取れ』という無数の文字が踊り、窓にはひびが入り、風に煽られた張り紙が、死者の衣擦れのような音を立てている。

蓮見が救ったはずの店主も、誇りも、この汚辱の山に埋もれて消えてしまった。彼が与えた「光」が強すぎたせいで、墜ちた後の闇は、より一層深く、醜く、この場所を汚していた。

だが、蓮見の足を本当の意味で止めたのは、その隣にある「残骸」だった。

朽ち果てる、という言葉はこの建物のためにあるようだった。

かつて「一条の中華屋」だった場所。

そこには、怒りの張り紙一枚すら無かった。誰からも忘れられ、ただ静かに、土に還ろうとしている廃屋。

看板の文字は陽に焼かれ、一文字も読み取ることはできない。外れた引き戸の奥には、カビの匂いと暗闇が淀んでいた。

蓮見は、震える指先でその腐った柱に触れた。

佐伯が作った「規約」という名の刃を、無自覚に振るい、この店の息の根を止めたのは自分だ。

ここで、一条の父親は厨房に立てなくなる絶望を味わい、母親は心身を壊し、そしてえみりは、隣で脚光を浴びる「ひまわり食堂」を、どんな思いで見つめていたのか。

自分の家を破滅させた男の隣で、優雅に微笑みながら。

その心の中がどれほどの血を流していたのか、今の蓮見には、自分の内臓を焼くような不快な添加物の味とともに、痛いほど伝わってきた。

蓮見は、その場に膝をついた。

ボロボロになったアスファルトの上に、土色の涙が落ちる。

ひまわり食堂は呪われて潰れ、一条の家は存在したことさえ消されようとしている。自分が「成功」と呼んでいたものの正体は、この凄惨な風景そのものだった。

「……ごめん、なさい……」

掠れた声で呟いても、朽ちた建物は何も答えない。

かつての栄華の象徴であるはずの岡山は、今や蓮見を裁くための、巨大な墓標となって彼を見下ろしていた。

身体の奥が、熱い。

安物のカップ麺のスープが、まるで劇薬のように胃を突き上げ、蓮見はその場に激しくえずいた。

口の中に広がるのは、化学的な、虚無の味。

彼は、自分がこの朽ち果てた廃屋と同じ、ただの「ゴミ」になったのだと、ようやく自覚した。

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