第2話 選ばれた人間
数日後の雨の夜。閉店間際の店に、再び佐伯が現れた。
今度はスーツではなく、少し上質な私服姿だった。
「蓮見さん、こんばんは。……いや、今日はもう仕事の話は抜きです。一人のファンとして、ここの餃子を食べて帰らないと、一日が終わらなくて」
苦笑いしながらカウンターの端に座った佐伯は、前回とは打って変わって、蓮見の苦労話やキャベツの産地の話を熱心に、そして謙虚に聞き入った。
「さすがだ。そこまでこだわっているから、あの味が出るんですね……」
感心しきった佐伯の言葉は、職人である蓮見の自尊心を心地よくくすぐった。
「そういえば蓮見さん。たまには奥さんと、外でゆっくり食事でもどうですか? 実は、私の知り合いがやっている店で、珍しい国産食材を専門に扱っている隠れ家のような料亭があるんです」
「料亭? いや、うちはそんな大層なところは……」
「勉強のため、ですよ。蓮見さんのような職人さんにこそ、知っておいてほしい味なんです。奥様への日頃の感謝も込めて、どうですか? 私の招待ということにさせてください」
恵美は「そんなの悪いわよ」と遠慮したが、佐伯のあまりに熱心な、そして「職人への敬意」に満ちた誘いに、蓮見はついに腰を上げた。
「……まあ、勉強になるなら、一度くらいは行ってみるか」
◆
数日後。佐伯に連れられて訪れたのは、高松の喧騒を離れた場所にある、看板のない料亭だった。
中に入ると、和服姿の女性たちが膝をついて出迎える。
「いらっしゃいませ、蓮見様。お待ちしておりました」
名前を呼ばれ、蓮見は戸惑った。
通されたのは、滝の見える広々とした個室。テーブルに並ぶのは、見たこともないほど美しく盛り付けられた料理の数々だった。
「蓮見さん、今日は飲んでください。最高級のシャンパンです。この泡の細かさ、わかりますか?」
佐伯が注いだ黄金色の液体を、蓮見はおずおずと口にする。
「……っ、なんだこれ。すごいな」
「でしょう? 本当に良いものは、喉を通る時の引っ掛かりが一切ない。蓮見さんの餃子と同じですよ」
佐伯の言葉に、蓮見は悪い気はしなかった。
「恵美、これ食べてみろ。この野菜、うちのキャベツとはまた違う甘みがあるぞ」
「本当ね……すごいわ、こんな世界があるなんて」
最初は緊張していた恵美も、佐伯の巧みな話術と、贅を尽くしたもてなしに、少しずつ顔を綻ばせていく。
だが、その夜、蓮見が浴びるように飲んだ酒は、彼の「舌」と「身の丈」を狂わせる最初の毒だった。
帰り際、店の前に用意されていたのは、佐伯の会社が手配した黒塗りのハイヤーだった。
「蓮見さん、また来週もいい店を予約しておきます。次は、もっと面白い世界をお見せしますよ」
ハイヤーのふかふかのシートに身を沈めながら、蓮見は暗い窓の外を流れる高松の夜景を眺めていた。
先ほどまでいた路地裏の、油の匂いのする厨房が、ひどく遠い場所のように感じられた。
◆
ハイヤーが路地裏の入り口で止まった。ふかふかのシートから降り、古いアスファルトを歩くと、靴の裏に伝わる地面の硬さがひどく現実味を帯びて感じられた。
翌朝、蓮見はいつも通り、夜明け前から厨房に立っていた。
トントントン。
キャベツを刻むリズムは昨日までと同じだ。隣では、恵美が手際よく皮を並べている。
「……昨日の料理、凄かったな」
蓮見が、キャベツの水分を絞りながら呟いた。
「ええ。でも私、なんだか疲れちゃった。あんな綺麗な場所にいると、自分が自分じゃないみたいで。やっぱり私は、この狭い厨房で、あなたの包丁の音を聞いてる方が落ち着くわ」
恵美は屈託なく笑い、皮を手に取った。
「そうか。……だよな」
蓮見は生返事をした。手は動いている。しかし、佐伯が別れ際に言った言葉が、耳の奥で何度も再生されていた。
『あなたのこのこだわりは、もはや日本の宝です。高松のこの路地裏だけで終わらせていいはずがない。全国の、美味しいものを求めている人たちに、あなたの餃子を届ける義務があると思いませんか?』
義務。その言葉が、蓮見の胸を熱くさせていた。
「なあ、恵美。もし……もし俺たちの餃子が、東京や大阪でも食べられるようになったら、どう思う?」
恵美の手が、ぴたりと止まった。
彼女はゆっくりと顔を上げ、真剣な眼差しで蓮見を見つめた。
「あなた。前にも言ったでしょ? 私たちは、今のままでいいの」
「わかってる。でもな、佐伯さんの言うことも一理ある気がするんだ。これだけ喜んでくれる人がいるなら、もっと多くの人に……」
「ダメよ」
恵美の言葉は静かだが、鋼のような強さがあった。
「全国に広げるってことは、あなたがここで包むんじゃない、誰か知らない人が作った餃子が私たちの名前で売られるってことよ。そんなの、もう私たちの餃子じゃないわ。……ねえ、欲を出さないで。今の幸せを、壊さないで」
恵美に諭され、蓮見は小さく息を吐いた。
「……そうだな。悪い、変なこと言った」
蓮見は再び包丁を握り直した。そうだ、恵美の言う通りだ。
この一坪の厨房で、彼女と二人、客の顔を見て商売をする。それが俺の人生だ。
そう自分に言い聞かせ、キャベツを刻む音を高く響かせた。
しかし、一度灯ってしまった「選ばれた人間」という自意識の火は、消えたように見えて、心の奥底で静かに燻り続けていた。
◆
その頃、佐伯は会社のデスクで、ある資料を眺めていた。
「……やっぱり、『味』や『金』じゃ落ちないか。なら、次は『大義名分』だ」
佐伯の口元に、冷ややかな笑みが浮かんだ。
◆
夕方。キャベツを刻む音が、いつもより激しくまな板を叩いていた。
「全国の人に、か……。それは、そんなにいけないことなのかな」
蓮見が絞り出すように言ったその言葉に、恵美は手にしていた皮を台の上に置いた。乾いた音が、静かな厨房に響く。
「あなた、おかしいわよ」
恵美の声は、怒りよりも深い悲しみに満ちていた。
「え……?」
「さっきから聞いていれば、全国だとか、義務だとか。そんなの、佐伯さんの言葉をそのままなぞっているだけじゃない。自分の言葉で喋ってよ」
「俺はただ、自分の腕がどこまで通用するか……」
「違うわ。あなたは今、目の前の鉄鍋じゃなくて、遠くの、見たこともない鏡を見て笑っているのよ。自分を大きく見せるための鏡を」
蓮見は反論しようと口を開いたが、恵美の射抜くような視線に言葉を飲み込んだ。
「いい? 飲食店の店長なんてね、このカウンターの向こう側のお客さんに、嘘をつかずに料理を出せればそれで満点なの。あなたは今、その百点満点の幸せを、ゴミ箱に捨てようとしているのよ。自分を『特別な人間』だと思い込み始めてる。……あなたに、そんな服は似合わないわ」
恵美はそう言うと、背を向けて洗い場に立った。激しい水の音が、二人の間の沈黙を埋める。
蓮見は、自分の手を見つめた。
キャベツの汁で緑色に染まった、節くれだった指先。
「……似合わない、か」
恵美に真っ向から否定されたことで、蓮見の心の中には、反省よりも先に、小さな、しかし鋭い「反発心」が芽生えていた。
『恵美にはわからないんだ。俺の腕が、どれほどの価値を持っているか。佐伯さんだけが、俺の本当の価値を認めてくれているんだ』
一度そう思ってしまうと、慣れ親しんだ厨房が、急に「自分を閉じ込める檻」のように感じられ始めた。
トントントン、と再びキャベツを刻み始めるが、そのリズムはどこか、以前の軽やかさを失っていた。
◆
その日の夜。店を閉めた後、蓮見のスマホに一通のメッセージが届いた。
佐伯からだった。
『蓮見さん、お疲れ様です。実は、ある「個人的な相談」がありまして……。ビジネスの話ではありません。蓮見さんにしかできない「人助け」の話なんです。明日、少しだけお時間いただけませんか?』
恵美の寝息を聞きながら、蓮見は返信を打った。
『わかりました。明日、伺います』
妻に諭され、一度は諦めたはずの道。
だが、恵美が「おかしい」と指摘したその違和感こそが、蓮見をさらなる深みへと引きずり込む「入り口」になろうとしていた。




