第1話 黄金色の羽根
鉄鍋に差し水をした瞬間、爆ぜるような「チュシユーッ!」という叫びが厨房に響き渡る。立ち昇る真っ白な蒸気の向こう側で、蓮見は耳を澄ませていた。
タイマーなんていらない。
水分が飛び、油が弾ける「パチパチ」という音が、わずかに低く、乾いたリズムに変わるその一瞬。それが「あがり」の合図だ。
「トントントン」
隣では、恵美(旧姓 六車恵美)がリズミカルにピリ辛きゅうりを叩いている。彼女の手つきは、蓮見の女房というより、相棒のそれだった。
鉄鍋をひっくり返すと、そこには見事な黄金色の羽根を纏った餃子が、整然と並んでいた。
「はい、あがったよ」
「おっ、待ってました!」
カウンターの客が、割り箸を割るのももどかしく一粒を口に運ぶ。
「サクサク、さくっ……ジュー……。くぅーっ、これこれ! このキャベツの甘みがたまんないんだよな。蓮見さん、瓶ビール一本追加! それと、そのピリ辛きゅうりも一つね」
「はいよー!」
恵美と視線を交わし、蓮見は小さく頷く。
タオルで額の汗を拭い、再びまな板に向かう。キャベツを刻む音、客の喉が鳴る音、冷えたビールの栓を抜く音。
この狭くて、油ぎった路地裏の店が、蓮見にとっての世界のすべてだった。
◆
「あ、ここです。部長、どうぞ。ここが例の店です」
若い方の男——名を佐伯という——が、慣れた手つきでパイプ椅子を引く。部長と呼ばれた男は、ネクタイを緩め、脂ぎった壁を忌々しそうに見つめてから、重い腰を下ろした。
「おい佐伯、本当にこんな路地裏の店が、我が社の主力事業になり得るのか?」
「まあ、どうぞどうぞ。何はともあれ、食べてみて下さい。私の目に狂いがないことが分かりますから」
佐伯は、厨房の蓮見に愛想よく手を挙げた。
「すみませーん! 餃子を四枚と、瓶ビール一本。それとピリ辛きゅうり一つね」
「はいよ」
蓮見は短く応じ、無心でキャベツを刻み続けた。トントントン、と店内に響く音が、佐伯にとっては「金の鳴る音」に聞こえているようだった。
やがて、黄金色の羽根を纏った餃子が運ばれる。部長は疑り深い目で一粒を口に運び、咀嚼した。その瞬間、男の眉根がピクリと跳ねる。
「……ほう。これは……」
「でしょう? 部長。国産野菜の甘みがこれだけ立っている餃子は、他にはありませんよ」
佐伯が、畳みかけるように蓮見に、そして部長に向かって声を張り上げた。
「蓮見さん。私はね、この店を本気でFC展開させていきたいと思ってるんです。昨今の餃子ブームもあり、餃子は今、外食産業で一番熱い。でも、どこも似たり寄ったりの味だ」
佐伯の目が、異常な熱を帯びて蓮見を射抜いた。
「この味、この『国産』へのこだわり。これを全国に広めましょう。部長、このクオリティを維持したままシステム化できれば、業界の地図を塗り替えられますよ!」
蓮見は、鉄鍋に残った油の匂いを嗅ぎながら、佐伯の言葉を反芻した。
「……全国に」
「ええ! あなたはここで、毎日数百個の餃子を包んで終わる男じゃない。一万個、十万個の餃子で日本中を唸らせる、巨大チェーンの『主』になるべき人だ」
佐伯の勢いのある言葉は、蓮見の胸の奥に、まだ燻り続けていた何かに火をつけた。
隣で恵美が、ビールの空き瓶を片付けながら、一瞬だけ蓮見の顔を不安そうに覗き込む。だが、蓮見の目はすでに、佐伯が語る「見たこともない景色」に向かって、ギラつき始めていた。
◆
佐伯が身を乗り出し、全国展開の夢を熱っぽく語るのを、蓮見は鉄鍋の汚れを丁寧に拭き取りながら聞いていた。やがて手が空くと、彼は軽く首を振り、柔らかな、しかし揺るぎない口調で答えた。
「佐伯さん、ありがたいお話ですが……うちは、今のままでいいんですよ」
佐伯の熱に浮かされたような表情が、一瞬で凍りついた。
「えっ……今のまま、ですか?」
「ええ。そうやろ、恵美?」
蓮見が隣を見ると、恵美もまた、迷いのない笑顔で頷いた。
「はい。私たちは、このカウンター越しにお客さんの顔が見えて、あがったよって餃子を出して。それでみんなが『美味しい』って笑ってくれる。その時間が、何より楽しいんです。これ以上広げたら、きっとそんな顔、見られなくなっちゃいますから」
恵美は、佐伯が空にしたグラスに、サービスで冷えた麦茶を注いだ。
「今の暮らしが、一番贅沢やと思ってるんです」
蓮見が、節くれだった自分の手を満足げに見つめる。
「俺の目が届くのは、この鉄鍋の上が精一杯です。工場で作る餃子じゃ、うちのキャベツの甘みは出せませんよ」
部長は、意外なものを見るように蓮見を凝視し、やがてフッと鼻で笑った。
「……無欲なことだ。だが、その頑固さがこの味を作っているのかもしれんな。佐伯、お前の負けだ。帰るぞ」
「し、しかし部長! 蓮見さん、本当にもったいないですよ!」
佐伯は名残惜しそうに、何度も振り返りながら店を後にした。
◆
店の引き戸が閉まり、再び路地裏の静寂が戻ってくる。
「あー、驚いたね。日本中なんて、そんな大層なこと」
恵美が可笑しそうに笑うと、蓮見もつられて笑った。
「俺には一生、この一坪の厨房が似合いだよ」
二人は、いつものように閉店作業を始めた。明日仕入れるキャベツの出来や、常連の誰々さんが元気なかったといった、些細で、かけがえのない会話。
この時の二人は、まだ知らなかった。
一度目をつけられた「本物」を、資本という魔物が放っておくはずがないことを。
そして、佐伯が諦めきれずに仕掛けてくる、巧妙な「二の手」があることも。




