第11章・84節『秘密の通路』
今まで数多くの本を手にしてきた。そのどれもが汚れ、手垢で茶色く変化していた。しかし、男はその独特の匂いも暖かな色合いも、心から気に入っていた。
「サヘロディ様、ドゥルフ・ストーンのトウミツが参りました」
信者であるミチアキモラの老人が、深く頭を垂れた。左手の薬指と小指が欠損しており、齢は70代前半で枯れ枝のような風貌だ。
サヘロディと呼ばれた男は、追憶から意識をそらし、老人の姿へと茶色の瞳を移した。老人の灰色のクロークの裾は擦り切れ、まさしく隠者と呼ぶに相応しい雰囲気だ。
「良かろう。通せ」
男の指示を聞き、老人の衣擦れの音が暗い洞窟の部屋を移動していく。こう言うものは、形から入らなければならない。
人々が記した過去の思想。それに触れること自体が、男にとっては心地よく感じるのかもしれない。
小さな救いへの期待。小さな願望。男、サヘロディへの希望。
それはすなわち、神に対する渇望でもあった。
何もかもが愛おしいものに思えた。小動物が庇護を求め、足に縋り付いてくるのを見ているように。
そして、慈愛に対する裏切りと憎悪。飼い犬に手を噛まれるとは、人が作った言葉ではないのか。
男の中には、激しい怒りと強い失望、そして信念の劫火が燃え盛っていた。
次に人々が筆を取り、サヘロディの名を書き留める前に、重ねた罪過を悔い改めさせる。それが男の宿命であり、サヘロディの神炎の存在理由なのだ。
「サヘロディ様、あと2時間ほどで準備が完了いたします」
部屋に通されたトウミツが、椅子に座っている男の前にひざまずく。トウミツが着ている薄手の濃い灰色の上着は、非常に質素でくたびれており、首には革紐が下げられている。ドゥルフと人間のミックスルーツであるトウミツでさえ、男より身長が8センチメートルほど高い。
「うむ、分かっておるぞ」
男はトウミツのはちきれんばかりの胸に、自然を装い目を落としながら、頭をそらしてあごを上げた。トウミツがリーダーを務める集団ドゥルフ・ストーンの内、4名を別件で差し向かわせる予定だった。
トウミツは愛くるしい笑顔を見せ、服の下で革紐の先につけられている物を手で押さえた。ドゥルフよりも短い灰色の耳が、服従を示すように後ろに向けられる。
「拝命いたしました件ですが、最も優れた者を3名派遣させていただきました。残りの者は、年端も行かぬ者ばかりでございますゆえ、どうかご容赦くださいますよう……。サヘロディ様の手足となり、任務に携われることを皆、心から誇りに思っております」
トウミツは目を細めてゆっくりと立ち上がり、男の椅子の後ろへと歩み寄った。男の肩にそっと手を置き、柔らかく触って包み込む。
「この世で唯一無二の神よ」
ポンの実のように甘いささやき声が、男の体と心をくすぐった。男は鼻の下をじりじりと伸ばしながら、トウミツに自身の手を重ねた。トウミツの瞳孔がわずかに揺れ、唇が美しく弧を描いた。
トウミツが心から信愛する母より年上の男。ミチアキモラ特有の黒く、先の尖った肉厚の爪がトウミツの指を気色悪く愛撫している。地の底を這いつくばるだけで、何の役にも立たない生き物。
ミックスルーツとは言え、トウミツには人の血が多く流れている。クースフローより見下されているミチアキモラにかしずく行為は、屈辱以外の何物でもない。
しかし、そんな素振りをおくびにも出さず、トウミツは男に黙って従っていた。
全てはトウミツの出生に関わっていることだった。自身が存在を許されているのは、ひとえに母のお陰なのだ。その信頼を裏切ることは、トウミツにとって精神の死を意味していた。
男の生ぬるい体温が、トウミツの手の甲に伝わり続ける。トウミツは豊かな胸を、さりげなく男の肩に近づけ押し付けた。男の表情が欲求に忠実に動き、背後にいるトウミツからでも、そのにやけ面が手に取るように見えた。
ひとり身の中年を操ることは、トウミツにとって赤子の手をひねるより簡単だ。自尊心をくすぐり、この若い肉体を支配させているように思わせ、潤んだ目で息を止め、頬を赤らめるだけで良い。
トウミツは、そのやり方でここまで来た。これからも、存分にこの武器を使い続けるだけだ。
今宵はトウミツにとっても男にとっても、非常に重要な局面を迎えることになる。2人は互いに、知らぬところで心の芯を熱く燃やしていた。それぞれが違う方角へと、動機を鋭く突き立てて。
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約1時間前、メロウティアはムラタ教授から、今日に入り3度目の暗号化通信を受けていた。繭はグレィマの首都フジシマから、国外に持ち出された可能性があるとの内容だった。
どの道、繭の分析結果次第では、キーイーギナへ繭を移す予定ではあった。盗難紛失などを理由にすれば、サヘー保護委員会の管理下から移行させる事など造作もない。
サヘー保護委員会には、メロウティア、秘書マエルーのほかにも、多数キーイーギナが入り込んでいた。セルデンサロー籍の副委員長もそうだった。
しかし、職員総数250名全てを、同志に置き換えることは流石に出来ない。委員長であっても、全権を掌握している訳ではないのだ。
グレィマやセルデンサローに潜伏している同志の情報から、両国が平和主義者への道を歩んでいないことは分かっていた。
本来サヘー保護委員会そのものが、サヘー島の監視のために作られた組織だ。両国主導で作られた委員会の陰で、キーイーギナは活動を地道に続けてきていた。
それが、サヘロディの遺物の捜索だった。
メロウティアの先祖であり、サヘー協定の調停役でもあったゴンゾー・タカイド。彼はランデル戦争で妻を失い、その後捕虜となった女性と、政治的な目的で再婚していた。
同年32歳でサヘー保護委員会の初代委員長になり、ゴンゾー街を開発、人々の良き道標となった。そして今から172年前、アーサニカー暦240年、87歳でその生涯を終えた。
しかし、ゴンゾーが後妻に感化されたために、死の間際で亡国フョーカーサヘーの再建を願うまでになった事実は、タカイド一族のみが知り得るものだった。
更に、彼が約50年の歳月をかけて、ゴンゾー街にあるタカイドの屋敷から、コイガネ山脈を抜けてセイキョウ方面へと地下通路を建設した事実も。
タカイド家とセイキョウを結ぶ直線上には、サヘロディとチァーラの栽培の契約を最初に交わしたと伝えられている、あのクスノキ村がある。そこには御神木とされている初代チァーラの木と、チァーラの森があった。
タカイド家があるゴンゾー街からコイガネ山脈までの間にも、小規模ながらチァーラの森が存在していた記録もある。
チァーラの根は、他に追従を許さぬほどに広く、そして深い。
地下通路の周囲を大きく掘り、既存の根を押しのける形で穴を通したところで、その通路にチァーラの新しい根が侵入すれば、通行は出来なくなるのだ。
つまり、ゴンゾーは何物でも切れないチァーラの根を、何らかの手段によって除去出来なければ、地下通路の建設など不可能だったことになる。
メロウティアは庁舎の階段を下りながら、昨晩読んでいた本を思い返していた。
【チァーラを切れる物】
まさしく、ゴンゾーはその物を手に入れたに違いない。
メロウティアは幼少時代から、タカイドの家系図を覚えさせられていた。この家系の先を紡いでいく覚悟と、責任、義務を叩き込まれてきた。
一度途絶えたものは永遠に失われる。精神を文字の形で保存できたとしても、 逃げられぬ血の鎖には敵わぬのだと。
ゴンゾーが再婚した妻の名は、リーサ・クスノキ。
サヘロディとの契約の際、チァーラの根を切れる物を、サヘロディが代表者であるコウスケ・クスノキに授けていたとしたら。
戦火を生き延びたリーサ・クスノキが、クスノキ家の避難通路として、地下通路をゴンゾーに作らせたのだとしたら。
メロウティアは、なぜ今までその考えに思い至らなかったのかと、息をのんで額に手を当てた。生まれた時からあったその存在が、当たり前のものになり過ぎ、どのように作られたのかなど考えたことがなかったのだ。
チァーラを切れる物がタカイド家に残されていたのなら、メロウティアが知らぬ訳がない。
となれば、サヘー島のクスノキ村に、メロウティアが欲している物があるかもしれない。
その可能性に居ても立ってもいられず、メロウティアは庁舎から駆け出して行った。




