第10章・80節『約束』
駅のプラットホームと壁の付近には、ブヨ袋がいくつも生えていた。大きくなった物を、ポルポの1匹がせっせと運び出している。
過剰な湿気のお陰で、それらは色つやもよく瑞々しかった。
柔らかだが破れにくいことから、小さなものを水筒として持っていく者もいる。唯一の難点は、湿気のある場所で長く持ち歩いていると、大きくなり過ぎることくらいだ。
カーネルシアはベンチの下に生えていた小さなブヨ袋を拾い、手のひらの上に乗せて面白そうに観察し始めた。ラグがそれに気づき、カーネルシアの手のひらに顔を寄せる。
「これがなかったら、俺たち、あそこで死んでいたかもしれないな」
エメラルド色をしたブヨ袋を見つめながら、ラグが感慨深そうに息を吐いた。
「これに命を救われたんですか?」
ルク・ミィアが、小さなブヨ袋を見て不思議そうに言った。
ラグはルク・ミィアに、チョスポへ向かう軌道自転車が脱輪した際、ブヨ袋に跳ね返されたお陰で、湖に落ちて難を逃れたことを話した。
眉を大げさに引っ張り上げたルク・ミィアが、目をしばたかせて驚く。
「それはそれは……」
カーネルシアはブヨ袋に飽きたのか、切符を売りさばいている最中のカズラに目を戻した。
客のドゥルフがお金を探しているらしく、後ろで待つ別の客達が列から顔を出して迷惑そうに様子を見ている。
ドゥルフは少女と呼べる年齢にも見えたが、背がかなり高く、カズラやルク・ミィアの背丈を優に越している。
ブヨ袋と同じエメラルド色の、ふわふわとした長い髪と後ろを向いたしっぽ。カーネルシアはベンチから尻を上げると、そろそろと少女に近づいて行った。
先ほど列車が消えていった方とは逆方面から、次の蒸気機関車が姿を現し、ホームに停車した。金属の悲鳴が、通路内に反響して広がる。ホームのベンチに座っていた客達が、一斉に列車の入り口へと列をなした。
反対側のホームに列車の乗客が下りていき、駅の出口へと向かって去って行くのが見えた。
カーネルシアはドゥルフの少女の真後ろに行くや否や、しっぽを至近距離で凝視し始めた。数日洗っていないような獣臭が、少女の周囲に漂っている。
ドゥルフの少女は、ようやくポケットの奥から硬貨を取り出すと、顔を真っ赤にして切符を買い、ホームへと走っていった。
「もふもふね」
少女の後ろ姿を見送りながら、カーネルシアがつぶやく。そして、ホームの床を見下ろしながら、不規則な歩調で再びベンチへと帰った。
「そう言えば、カレーが具体的にどういう物か、ラグさんはご存じなんです?」
ルク・ミィアがベンチに戻って来るカーネルシアを眺めながら、ラグに興味本位で質問した。
きちんとした携行食をフジシマで買って来なかったのは失敗だったが、ポルポテッタに行けば、いくらでも食事処は見つかるだろう。
冊子に巻紙鉛筆を走らせていたラグが、手を止めて顔を上げた。
「古き時代の人々が、ベュー・ルガテカーでよく食べていた物らしい。辛い物から甘い物まであって、幸せになれる味がしたと伝えられているんだ。匂いを嗅いだだけで、天にも昇る気持ちになるらしい」
ラグは息を胸いっぱい吸い込むと、その香りと味を想像して唾液を飲み込んだ。
「サヘー島にカレーの味がするカレー豆があるぞ? それを食べるといい」
少し前に言っていたことを、カーネルシアが再び口にした。困惑したラグだったが、考え直し居住まいを正した。
「まさかとは思うけど、カレー豆が生えているのを見たことがあるのか!?」
もしそれが本当なら、次にサヘー島へ帰った暁には、何を差し置いてでも直ぐに探さなければならない。
チァーラの木の研究も大切だが、チァーラの木は逃げない。カレーを食べることは、ラグが子供の頃からずっと心に秘めてきた最大の夢なのだ。
「山から落ちた岩の近くで見た」
カーネルシアのその言葉に、ラグは胸が歓喜で張り裂けそうになった。拳をぐっと握りしめた両腕を唐突に高く上げ、力みながら震えた。
「その場所は覚えているか? ゴンゾーから近いのか? いつ頃見た? 他の人は知ってるのか?」
興奮したラグが冊子の新しいページを開き、書き留める準備をしながら質問を重ねた。
「行こうと思えば行ける。ゴンゾーからそれほど離れていない。見たのは最近だ。まだ誰も知らない」
カーネルシアはそう言ってカバンから櫛を出し、いきなりルク・ミィアのしっぽを捕まえてすき始めた。ラグは期待と希望に燃えた目で、何かを決意したようにカーネルシアを熱く見つめた。
「カレー豆、私も食べてみたいです。カーネルシア、サヘー島に帰るときは、私も一緒に連れて行ってくださいねッ」
ルク・ミィアが、ラグの代わりにさらりと言い、カーネルシアに片目を閉じて見せた。
「お、俺も!」
慌ててラグも身を乗り出す。昔からの夢であるのに、これではまるでルク・ミィアの案に便乗した様ではないか。コミュニケーションスキルの低さを、ラグは内心小さく嘆いた。
「ん゛。僕の用事がすんだら、連れて行っても構わない」
カーネルシアの返事が終わらない内に、制服を着た数人の人間とドゥルフが通路に駆け込んできた。そのままの勢いで、カズラのいる窓口へと詰め寄る。
「おい、お前! ピンク色の髪の人間の男と、赤いシャツを着た人間の女に切符を売った覚えはあるか!?」
制服の人間が、開口一番でカズラに問いかけた。右肩につけられた記章を見るに、グレィマの警察か警備員のようだ。
「いや」
咄嗟にそう答えたものの、ピンク色の髪と聞き、カズラのしっぽが止まった。
まさか蒸気自動車に乗っていた、あの男のことを言っているのだろうか。しかし、見たとは言え、あれから2時間は経っているはずだ。今は一刻も早く金を稼ぐ必要がある以上、面倒事も困る。
そうこうしている間に、制服の人間達はホームにいるポルポの方に走って行ってしまった。
列車の発車時刻になったらしく、機関車から警笛が鳴り、列車は遅い速度で走り出した。カズラはそれを横目で見ながら、黙々と機械のように切符を売り続けた。
「警官が来ているみたいですが、何かあったんですかね?」
ルク・ミィアが、人々の間から見える制服姿の人間達を指して言う。警官達は収穫がなかったらしく、線路とは別の地下通路の方へと姿を消した。
「誰か探しているみたいだったな」
指についたスズモロの皮の欠片を払いながら、ラグがルク・ミィアの視線に追従する。
地下通路は、列車が作られる以前に利用されていた物で、徒歩移動の場合はそこを通ることになる。
カーネルシアはベンチの横にしゃがみ込み、ブヨ袋の小さな分裂体をじっと観察していた。壁を伝って落ちてくる水滴がブヨ袋に当たり、面白いように吸われていく。
「カーネルシア、おなかが空いたでしょう。先にポルポテッタへ行って、ご飯を食べながらカズラさんを待ちませんか?」
ルク・ミィアから腹の鳴る音が聞こえ、カーネルシアはブヨ袋から目を離した。
その提案に、ラグもいそいそと立ち上がる。
「そうだな。ポルポテッタの駅が見える範囲で、食事処を探そう。そこでカズラを待っていればいいし」
カーネルシアは数秒固まって目を宙に泳がせていたが、カズラの方を見て首を横に振った。
「ルク・ミィアとラグだけ、先にポルポテッタへ行ってご飯を食べていてくれ。僕はカズラと一緒に行く」
同じく起立し、長鞄を背負おうとしたルク・ミィアが手を止めた。
「カズラさんはまだまだ、ここでお金を稼がなければなりません。その間、カーネルシアがおなかを空かせて待っている方が、あの方も心苦しいと思いますよ」
本心ではつゆとも思わないであろう事を、猫なで声に乗せてカーネルシアに伝える。
実際金が足りないのなら、このまま切符を売り続け、ある程度の金を貯めればいい。腐るほど時間をかけて、たっぷり貯める事だ。
どれだけ時間がかかろうとも、カーネルシアの暇つぶしはルク・ミィアが喜んで面倒を見る。そう、長ければ長いほど。




