第9章・72節『本能と本心』
心に垣根を張り巡らせたカズラだったが、カーネルシアとの今後という重大な事柄に関して、自問自答を繰り返していた。
結局、慈悲でカーネルシアを助けたのではなく、自分の置かれた状況から、逃げ出すためのきっかけが欲しかったに過ぎなかったのか。
訳の分からない夢と不安、そしてカーネルシアの奇妙な言動が原因で、カーネルシアをグレィマで放り出して行くとでも言うのか。
ルク・ミィアがそれを知れば、端からこうなる事は分かっていたと、鼻高々で笑うだろう。
ふと目を落とすと、いつの間に向きを変えたのか、カーネルシアがカズラの方に頭を向けて丸まっていた。途端に耐え難いほどの後悔が押し寄せ、カズラはしっぽを曲げて、カーネルシアの頭に寄り添わせた。
ずっと一緒にいると言ったなら、相手を理解する努力をしなければならない。
猫とクースフローを捨てることは、カズラにしてみれば重罪だったが、クースフローなら人間を捨てても許されると言うのだろうか。
己の吐いた言葉に責任を取らないこともまた、重罪だとカズラは思った。
「カーネルシア、お待たせしました! 全速力で仕事を終えてきたので、どこにでもお供出来ますよ!」
カズラがカーネルシアに声をかけようとしたその時、ルク・ミィアが大きな袋を抱え、応接室に駆け込んできた。
「ささ、お洗濯が終わりましたから、ぴかぴかのふかふかになったお洋服を着せて差し上げましょうね」
カーネルシアが起き上がる前に、ルク・ミィアが紙袋から、カーネルシアの着ていた服を楽しげに取り出す。
まだ他にも中身が入っている袋を、カズラ達に見えるように無言でテーブルの上に置くと、ルク・ミィアは服を持ってカーネルシアを部屋の隅に連れて行った。
置かれた袋をのぞくと、カズラやラグの服がそれなりに綺麗になって入っているのが見えた。
ルク・ミィアが両膝を立て、持っていた服を肩にかけて、カーネルシアのだぼだぼの作業服を脱がしにかかった。その様は、まるで人形相手に着せ替えをするように見えた。
途端にカズラの中で嫌悪感が湧き上がり、ルク・ミィアの手を妨害するように、急いでその前に立った。
「成人男性の着替えを手伝う趣味はありませんが?」
ルク・ミィアが、目の前のカズラを嫌そうに見上げる。
「もう十分、自分で自分のことが出来る歳だろ。カーネルシアは赤ん坊とは違う」
カズラはそう言うと、ルク・ミィアが肩にかけていたカーネルシアの服を取り、下着姿になっているカーネルシアに手渡した。
カーネルシアはその場でカズラに背中を向けると、非常にぎこちない動作で、もぞもぞと服を着始めた。まるで服という物を、今初めて着ているかのようだ。
上下の焦げ茶色の服は、紐も何も付いていない物だったが、大きさがやけにカーネルシアの体にぴたりと合っている。
背中で上の服のすそが、中途半端にズボンに入れられているのを目ざとく見つけ、ルク・ミィアが横から褐色の手を伸ばした。
「赤ん坊扱いしているわけではありませんよ。これは単なる親愛の証です。身支度を手伝うということは、親しい間柄でなくては出来ませんからね」
そう言って、カーネルシアのズボンの中に丁寧にすそを入れ、静かに立ち上がった。
わずかな身長の差で、ルク・ミィアがカズラの目を冷たく見下ろす。その表情がはっきりと、カズラの存在が邪魔だと言っている。
「それで……昼飯はどうする?」
ルク・ミィアの背後から、服を着替え終えたラグが、借りていた作業服を簡単にたたみながら聞いた。
未だ作業服姿だったカズラは、慌ててテーブルに戻ると、袋の中から服を取り出し、手早く着替え始めた。
「まだ10時半を過ぎたばかりですね。カーネルシア、おなかはどのくらい空いていますか?」
ルク・ミィアが、手首の機械式腕時計をちらりと見た。
カーネルシアもラグを真似て、着ていた作業着をどうにか畳むと、自分の腹を見下ろした。
「……食べる必要があるなら、食べてもいい」
カズラは手持ちの金が無いことから、苦い顔で黙ったまま作業着を袋の中に入れた。また金を稼ぐために、早々に仕事を探す必要がある。
それよりも先に、カーネルシアにまだ確かめていなかった事を思い出し、カズラが口を開いた。
「目的地はどこだ? 観光しに来たかっただけか? それとも、ここで暮らすために来たのか?」
室内は適温だったため、カズラはカーネルシアの返答を待ちながら、紺色の風防服を丸め、カーゴパンツのポケットに突っ込んだ。ヌーネイルの鱗を割いて糸にし、織られている物のため、非常に軽く小さく畳むことができる。
兄のナローフィスが学び舎の教師をするため、クルーセに与え、更にそれがカズラの手に渡った。長年使用されてきているにも関わらず、未だに破れていない優れものだった。
カーネルシアは、質問してきたカズラをチラ見していたが、しばし考えてからこう答えた。
「今は観光だ。君たちと色々見て回るのが楽しいからな」
それを聞き、カズラは心に張り付いたままの不安が、もはや何に対しての物なのか分からなくなっていた。
カーネルシアへの相反する心。カズラの本能はカーネルシアに対し、警戒しろと言っている。
だが、カズラの本心は。
カーネルシアと離れることがあれば、心のどこかに埋められなくなる穴が出来ることを知っていた。それはまだ小さく、耐えられはするだろう。しかし、未来に何も期待していなかった日々から見れば、長く痛みが残るだろうことは明白だった。
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「どうかされたんですか、カズラさん。様子がおかしい気がしますが」
アーモ・ハリヌ社を出て、近場で食事のできる店を探しながら、ルク・ミィアがラグに耳打ちをした。
後ろからついて来ているカーネルシアとカズラの間に、今まで無かった妙な距離感があるように思えたのだ。
「あぁ……君が帰って来る前に、ちょっとあってさ」
周囲の高くどっしりとした建物を眺めつつ、ラグが声を落として言った。
何もかもが新鮮に見えたが、建国から270年近く経つだけあり、さすがに古い建物が目立つ。
基本的にサヘー島もグレィマも、老朽化を理由に取り壊し、新たに建設することは珍しかった。人手も建築資材も重機も、何もかもが足りていないのだ。日ごろから物を丁寧に扱い、手入れや修繕を行うのが当然の行為となっていた。
「何があったんです?」
ルク・ミィアが、ラグの予想していた通りの反応を見せる。
ラグは、カズラのしっぽをカーネルシアが舐めたことで、カズラがしっぽを喰われる恐怖に縮み上がったのだと教えた。
真顔で聞いていたルク・ミィアは、ラグが話し終えた数秒後、情景を思い浮かべたのか、唐突に鼻から勢いよく吹き出した。
「どうしてカーネルシアが、カズラさんのしっぽなんか舐めるんですか。あんな汚い物」
真後ろを歩いているカーネルシアに直接聞いたらいいのにと思いながら、ラグはカーネルシアが読んだという本のことを話した。
「それを読んで、カーネルシアは猫の毛づくろいを真似て、親しみを表そうとしたんだろうな。カズラがあまりに怒ったもんだから、カーネルシアもしょげてしまったみたいだ」
ラグの説明を聞くや否や、ルク・ミィアの口角がじりじりと上がっていった。




