第9章・69節『攻防戦』
「カズラ、大丈夫か?」
カーネルシアはそう言うと、カズラの唇を間近から見つめた。混乱したカズラの目が、2つの湯呑みの間を何度も往復する。
まるで酷く疲れて、悪い夢を見ているような気分だ。実際、そうなのかもしれない。何しろ、ろくに食べていない状態で、初めての船旅の後、休む間もなく夜通し肉体労働をしていたのだ。
「少し……疲れただけだ」
自分に言い聞かせるように、カズラはかすれた声でつぶやいた。熱い茶を半量一気に飲み干している事も、くびれのない体形をしている事も、色だけが妙に浮いている髪も瞳も、すべてカズラが疲れているからだろう。
他とは異なる者、それを望むが故に、カズラが些細なことでも意味があるように感じてしまっているのだ。
ロロに襲われた時、船の壁に激突することを覚悟するほどの揺れの中、カーネルシアを片手で抱え、守ろうとしていた。
しかし、あの時、カズラが全く動かずにすんだのは、他でもないカーネルシアにつかまっていたからだった。
その体は錘でもつけられたように重く、まるで船に固定されているように微動だにしなかった。
そもそも、カーネルシアの身分を証明する必要に迫られた、あのゴンゾー街の食堂。あの場所に、バラノ村の孤児の話を知っていた人物が立ち会える確率は、一体どれほどあるのだろうか。
そして……
カズラが、カーネルシアとの新しい人生のために、見て見ぬふりをしてきた記憶の隅に追いやったもの。それを急速に紐解きだしたその時、動かなくなったカズラの顔を見上げながら、カーネルシアが口を開いた。
「カズラ、おねんね?」
その言葉が皮切りとなったのか、全てが寝落ちする寸前に作られた夢だったのか、カズラは深い眠気に引きずられて意識を失った。
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「なぜだ!! ちゃんと探したのか!?」
セルデンサローのトウノ港に近いポルポ便窓口で、タイジュ・オオイシが大声を上げた。
人通りの少ない路地裏に、その声が込み入った家々の石壁を震わせて広がる。はたから見ると、ポルポ便の窓口はタイジュの大きな体ですっぽり覆われて見えた。
少し長めの紺色の髪が、額に浮かんだ汗のせいで濡れている。徹夜でもしたように、割とぱっちりした茶色の目が、血走って赤くなっている。
「怒鳴らなくても聞こえてるのね」
窓口のポルポが、面倒そうにひげ触手を巻いたり開いたりした。
「受け付けてから24時間経ったのね。だから戻ってきたのね。もう一度出すなら、代金を支払うのね」
ポルポは無慈悲にそう言うと、窓口の机をひげ触手でこんこんと叩いた。
「ポルポなんぞに頼った自分が馬鹿だった!!」
ポルポ目掛けて吐き捨てたタイジュは、顔を真っ赤にして港の方へと走って行った。
顔にかかった唾を触手でぬぐうと、ポルポは机に置かれたままの信書を見下ろした。王室御用達の上質な茶封筒には、印字したのかと思うほど整った、力強い字が大きく書かれている。
セルデンサロー治安維持部隊、セルデンの盾指揮官の中では、頭に排泄物的単語がつくほどの真面目さで有名なタイジュだけあった。
「持っていかないのね」
信書をひげ触手で持ち、小さな口を大きく開く。そこに信書を詰め込むと、もしゃもしゃと噛み千切って飲み込んだ。
後にはただ、元の静かな路地裏の日常が残っているだけであった。
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うごめいて見える物があった。
白と黒の明滅に取り囲まれ、耳障りな音が押し寄せる。
ゆっくりとした脈動、それからまた……あの不可思議な旋律。
意識を集中させようとすると、音が薄れていく。まどろみと混濁の底からしか、聴こえてこない歌声。長く続く記憶の切れ端。
あの時、何をしていたのか。それとも、あの時、何をされたのか。
「……前は? ……ラしゃって言うのか。ニゃんニゃんにょ」
体の末端がぼやけて、何かが這いずり回っているように感じる。何もかもが重く、何もかもが……
「ズラしゃ、かぁいいね? チッポッ……チッポッポッポッ」
応接室のソファーにうずくまる様にして丸まり、カーネルシアはカズラのしっぽに息がかかるほど顔を近づけていた。しっぽの先端がぴくぴくと不定期に動き、カーネルシアの鼻の先を微かに撫でる。
紫色のアンダーコートに隠された地肌を見たいのか、カーネルシアは鼻息をかけ、しっぽの柔らかな毛を夢中で揺らしている。
その内、何かに耐えられなくなったように口をあんぐりと開け、カズラのしっぽの先端を引っ張った。
「何をしている」
しっぽをつかまれて目を覚ましたカズラが、気怠そうな声を出して目を向けた。カーネルシアは口を開けたまま、目を彼方に泳がせた。
「俺の尻尾をどうするつもりだ」
カズラはしっぽを引っ込めようと力を入れたが、カーネルシアの手から抜き去る前に、カーネルシアがばくりと口を閉めた。
「!?」
一気に眠気が吹き飛び、カズラは慌てて尻を浮かせてカーネルシアの口からしっぽを引き抜いた。カーネルシアから数歩離れたカズラの目が、唾液でべたべたになったしっぽの先をとらえる。
何を考えているのか分からない表情で口を波打たせながら、カーネルシアがカズラを見上げた。
「俺を……喰おうとしていたのか?」
カズラの震える声に唇を前に突き出し、更に上下に波打たせたカーネルシアが起き上がった。
「食べていない」
カズラがじりじりと後退し、ドアのノブに後ろ手を伸ばす。
「尻尾を口に入れていただろ!」
「入れただけだ。かじったりしていないだろう?」
どういう理屈だとカズラは憤慨した。その手がノブを回す前に、ドアが開きカズラの体にぶつかった。
「あれ? 何だ?」
何度かドアが開け閉めされ、隙間からラグのゴーグルがのぞいた。
「カズラか。中に入れてくれ」
図書館から帰ってきたと思しきラグが、紫色のカズラの後頭部を見て声をかけた。
ラグがついて回ることを快く思っていないのは周知の事実だが、妨害しているにしては、カズラがドアに背を向けているのが不可解だった。
カーネルシアはソファーから立ち上がると、両手をわきわきと動かしながらカズラに近づいた。妙に楽しそうに口元をゆるませている。
カズラの毛がぞわぞわと立ち上がり始め、背中がドアに張り付いた。
「何を考えている」
カズラが怯えていることに興奮しているのか、カーネルシアの青紫色の瞳が大きく見開かれ、ぎらつき光った。
「カズラ?」
頑として開かないドアの横から、ラグが中の様子を見ようとして、頭をあちらこちらに移動させている。
ついにカーネルシアはカズラに飛び掛かり、縮み上がっているしっぽを捕まえ、しゃがみ込んでぶんぶんと振り回し始めた。
一瞬声にならない叫び声を上げたカズラが、しっぽの毛を限界までぼんぼんに逆立て震えあがった。
「こ゜ッ」
更に目を開いたカーネルシアは、文字にしがたい声を出し、口を開けたままでしっぽを振った。
「カーネルシア!!」
必死の思いで声を振り絞ったカズラは、カーネルシアの名を叫ぶと同時にしっぽを自分でつかみ、応接室の奥へと突っ走った。




