第8章・64節『毒モップ』
グレィマの朝は昨日に引き続き、曇り空から始まった。一時的に細かな雨に降られはしたが、本降りにならずに幸いだったと言える。
港の作業で支払われた硬貨入りの袋を握りしめながら、カズラは苦い顔で図書館に向かっていた。
深夜から休憩時間もなく7時間肉体労働をして、5,000エン。朝食どころか、カーネルシアから借りている6,000エンを全額返すこともできない。
袋を手渡してきた時のドゥルフの顔を考えると、通常支払っている額より明らかに低かった可能性もある。
しかし、無理に雇ってもらった素人の身としては、借金を少なく出来ただけマシだと思うほかない。
カズラが図書館の表玄関にたどり着いた時、丁度そこからルク・ミィアとカーネルシア、ラグが出てきた。
「カズラ」
カーネルシアがカズラの名を呼び、そそくさと嬉しそうに駆け寄ってきた。
ルク・ミィアがげんなりした顔で目をそらす。ラグは後ろ髪を引かれているように、図書館の書架を見つめながら正面玄関の扉を閉めた。
「これは借金の分だ。まだ足りないが、また仕事を見つけて返す」
カズラは気落ちした様子を悟られないよう、寝かせ気味だった耳を無理に立てた。
カーネルシアは差し出された袋を受け取りもしないで、じっとカズラの瞳を見つめた。
「お金はいらない」
「いいから受け取れ。もうルク・ミィアとは別れるんだからな。金がないと困るだろ」
重要な事実を強調しながら、カズラはカーネルシアの後ろで水拭きモップのような髪になっているルク・ミィアを見た。
気分の悪い1日のスタートだったが、その酷いなりを見ると少しは気が晴れた。
カズラの嘲笑と毒を含んだ視線に対し、ルク・ミィアがしれっと言い返す。
「残念ですが、これからカーネルシアと私の会社に向かうんです。カズラさんは、またお仕事を探されてはいかがですか?」
カズラが毛を逆立てて叫ぶ前に、ラグが口を挟んだ。
「そこで、シャワー室っていうのを借りられることになったんだ。それで体を洗えるらしい。ついでに服も洗ってもらえる。行かない手はないだろ?」
その説明を聞き、カズラはどうにか言葉を飲み込んだ。グレィマで仕事を探すのなら、風呂に入らないままと言う訳にはいかない。ましてや、カズラの服は地下に入ったお陰で、あちこち黒ずみ土の匂いを発している。
一度地底湖に落ちた事や、海上で風に吹かれていた事、元々匂いの少ないクースフローである事が幸いし、ドゥルフのように汗臭くはなっていなかったが。
「さぁ、行きましょう、カーネルシア。シャワーを浴びたら、新品のおパンツをはかせて差し上げますからね。あ、何でしたら一緒に入りますか? 個室ですが」
「ふざけるな!!!」
少しずつ通行人や蒸気自動車の数が増えてきた港通りに、耳をつんざくようなカズラの叫び声が響き渡った。カズラの逆立った毛と爆発しそうな顔を見て、カーネルシアが口を小さく丸く開けた。
昨日カズラが別れる前に見た顔より、心なしか幾分丸くなった気がする。
図書館でゆっくり休めるとは思えなかったが、ルク・ミィアが上手く休ませたのだろうか。カズラはしかし、その反吐が出そうな推測を、頭の中から即座に追い払った。
きっと下手に休ませたお陰で、むくんでいるのだ。
ルク・ミィアの会社に行き着くまでの間、カズラは最後尾を歩きながら、しっぽで空を鞭打ち続けた。
港通りには路面電車が走っており、電柱が等間隔で設置されていた。生まれて初めて電車を見たカズラとラグは、それが通り過ぎるたびに興味津々の目で追いかけた。
カーネルシアは電車に興味がないのか、前を案内するルク・ミィアに従い、ひょこひょこと石畳に似た歩道を歩いている。様々な形と色のタイルが敷かれており、どうも決めたタイルに飛び乗って歩くことに、夢中になっているらしい。
港通りの途中、グレィマ国立医科大学付属病院前と書いてある標識が見えたところで、ルク・ミィアが立ち止まった。左側に続く通りを指さし、ここに入ることを示す。
「ハリヌ器はチァーラの実……つまりランデルを扱いますから、開発に危険がつきものなんです。ですから、病院の近くにあるんですよ」
そう言うと、カーネルシアがついてくるのを確認して、裏通りを進み始めた。
都会人であるルク・ミィアとの境遇の差に、カズラの耳としっぽが次第に下がっていく。田舎者でも、こう言った場所の土地が高いだろうことは想像できる。周囲の建物も、サヘー島にはない4階建てのコンクリート製の物ばかりだ。
道を進むにつれ、みじめさが大きくなっていくようで、カズラの足取りは重くなっていった。
「さ、着きましたよ。どうぞお入りください」
足元を見て歩いていたカズラが、明朗快活なルク・ミィアの声に足を止めた。
差し出された手の先には、アーモ・ハリヌ社と書かれた小さな金属製の看板と、ガラスを使用して作られた出入り口があった。
これでルク・ミィアがモップ頭でなければ、打ちひしがれてドン底の気持ちになっていたことだろう。
しかしそれもまた、風呂に入ればサラサラで艶のあるストレートの髪に戻るのだ。
カズラは、自分がルク・ミィアに勝る部分はあるのだろうかと、真剣に思い悩んだ。
ここでルク・ミィアとは、永遠に道を分かつことになるのだ。当然、ラグともだ。カーネルシアとの新しい人生の開幕が、もうすぐそこまで迫っていると言うのに、何を心配することがあるのか。
そう自分に強く言い聞かせながら、カズラは消極的な感情を追い払った。
中に入ると、カズラ達は一旦応接室へと通された。受付に人はいなかったが、社内には複数人の気配があった。
「少しここでお待ちを。念のためにシャワー室の利用許可をもらって来ますので」
ルク・ミィアはそう言うと、足早に応接室を出て行った。
応接室の中には、革張りされた白いソファーのセットと、重厚な色合いの木目が見えるテーブルが置いてあった。灰色のカーペットには、埃ひとつ落ちていない。
壁際にはガラス張りになっている腰丈の棚があり、最新型のランデル・ハリヌ器と思われる物が並べられている。その上には、創業者のような風格の人物の写真が飾られてあった。
部屋に窓はなかったが、凹凸のあるベージュの壁紙と間接照明で、部屋の中は心地よい空間に整えられていた。
しかし、ラグは落ち着かないように、鞄を抱えて周囲を見回した。
「緊張するよ。こういう場所に来る機会がなくて……。サヘー島とは大違いだ」
何食わぬ顔で、カーネルシアがソファーの真ん中に座る。
腕を組んだカズラは、棚の中のハリヌ器をじろじろと見下ろした。ハリヌ器の横に、動力源となるチァーラの実が、説明用として数個並べられている。
「カーネルシアは、ここを出たらどこに行くんだ?」
カーネルシアの隣に腰を下ろしながら、ラグが鞄からいつも通り冊子を取り出した。
カズラの耳が反応し、真後ろにいる2人に向けられる。
「向こうの方に行く」
そう言ってカーネルシアは腕を上げ、人差し指でその方角を指し示した。
「向こう?」
振り向いたカズラが確かめる前に、応接室に帰ってきたルク・ミィアを見て、カーネルシアが腕を下ろした。
「お待たせしました。こちらへどうぞ」
カズラはルク・ミィアに借りを作る気はなかった。しかし、カーネルシアがルク・ミィアに個室に連れ込まれないようにするためには、自分もついていく必要がある。
当然、カーネルシアとシャワーを使うのは、保護者たる自分の義務なのだ。決して、ありがたがって使う訳ではない、とカズラは自分に言い訳をした。
渋い顔で黙ったままついて来るカズラを見て、ルク・ミィアは自然とほくそ笑んだ。




