第8章・57節『船の上の晩飯』
ロロからの横波をもろに受け、輸送船の何かが激しく壊れたような音を立てた。船のあちこちから悲鳴が聞こえ、下の階層からも乗組員の叫び声が上がった。ひと際大きな波を越えた後、続く衝撃に全員が体を硬直させた。
しかし、ロロは急にその泳ぎを緩めて深く潜り、船の揺れは次第に収まっていった。
「……?」
ラグが恐る恐る目を開き、状況を確かめるため周囲を見渡す。ルク・ミィアが、滑らないよう手すりに絡ませた足を、慎重に引き抜いている。カズラも顔を上げ、海水で濡れたしっぽを払った。
「ロロは?」
誰に聞くでもなくつぶやいたラグは、闇の中の海原にロロの姿を探した。もはや船体の下にその姿はなく、大きく波立っている所も見えない。
「もう少し時間がかかるかと思いましたが、案外敏感な生き物なんですね」
足から長鞄のショルダーベルトを外した後、ルク・ミィアがコートを脱ぎ、人のいない場所に向け大きく振って水気を飛ばす。
「洗わないと塩を吹きますねぇ、これは……」
その言葉に、ラグも深く同意した。ルク・ミィアやラグとは異なり、カズラはしっぽが濡れた程度ですんでいた。体の緊張を解いて起き上がると、カーネルシアに怪我がないか念のため確かめようとした。
「カズラも大きな肉球を触りたいだろう?」
瑠璃色のポンチョコートを風にはためかせて、カーネルシアが手すりに駆け寄る。西の低い位置で棚引いている、鈍い紺色の帯になった雲の隙間から、わずかに赤味がかった空がのぞいている。
「何の話だ」
カーネルシアの後を追ったカズラは、海面に何かが浮いているのに気付き、下をのぞき込んだ。
そこには、無残に壊れた木箱の破片と、チァーラの実が大量に波に漂っていた。
ロロに襲われてから、船は点検と破損個所の応急修理、そして海面に散らばった1箱分のチァーラの実の回収で、約1時間足止めされる事になった。
走り回る乗組員に子供の泣き声、荷物を探して回る人々で、船の上は騒然としていた。波に飲まれ、海上に離散してしまったチァーラの実は、回収が不能とされて文字通り見送られた。
ハリヌ器を手に、ルク・ミィアは乗組員達からの質問攻めに応対し、名刺配りで大忙しだった。
カズラはカーネルシアやラグと共に、船上の混乱を避けて客室の壁際へと移動した。収まりつつある船酔いで顔色を戻しながら、ラグが濡れた二重マントを脱ぐ。その下の、着古された黄土色のつなぎも少しばかり濡れていたが、海の夜風に当たっていれば乾く程度のものだった。
「初めてハリヌ器を見たけど、あんな物であの大きなロロが撃退できるなんて、チァーラの実がすごいと言うべきか、ハリヌ器がすごいと言うべきか……」
尻を床に下したラグが、まだ興奮しているように冊子を取り出す。大方、ハリヌ器の絵でも描く気なのだろう。
カズラも動揺がまだ抜けきっていない様子で、壁を背に座り込んだ。名刺を配り歩いているルク・ミィアの姿が、嫌でも視界に入る。カーネルシアもカズラとラグの間に座った後、ラグの紙巻鉛筆が描き出す絵を面白そうに眺めている。途端にラグから、思い切り腹の鳴る音が響いた。
「そろそろ……飯の時間、だよな?」
カフェでひとりパイをかじっていたのを忘れたのかと、カズラがラグを蔑んだ目で見た。ラグは冊子を鞄にしまうと、代わりに携行食の入っている布袋を取り出した。
「2人とも、腹は大丈夫か? 多めに買ってあるから、良かったら一緒に食べよう」
手元をのぞき込み続けているカーネルシアに、ラグが声をかけた。
「僕はいらない。もう食べたからな」
カーネルシアはしかし、ラグの誘いを静かに断った。普段からろくに食べていないのは、その骨と皮だけの細い手からも分かる。だが、だからこそ胃が小さくなり、大して食べられなくなったのだろうか。
金がないばかりに、カズラは晩飯用の携行食も買えずじまいだった。日ごろから兄達のいやしい食べ方を反面教師としていたからか、ラグのように胃袋の僕とならずに済んではいる。
しかし、カーネルシアが必要以上に食べようとしないのは、カズラに影響されている可能性もある。カズラが食べていない分、遠慮しているのかもしれないのだ。
「食える物は食っておけ。お前は痩せ過ぎだ」
カズラにそう言われたカーネルシアは、驚いた顔で大きく目を見開いた。何を考えているのか数秒固まると、ラグの持っている袋に視線を投げる。
ラグが気を利かせて袋の中身を取り出し、カーネルシアに1枚手渡した。
「中身はヌーネイルの干し肉だ。試しにひとつ食べてみるといい。結構柔らかいから、小さく千切れば飲み込みやすいぞ」
カーネルシアは唇をぐにぐに動かしながら、ラグから干し肉をもらい、戸惑ったように自分の手を見下ろした。
「僕は痩せ過ぎなのか?」
ラグとカズラが思わず目を合わせる。これを痩せ過ぎだと言わなければ、この船に乗っている全員が太り過ぎと言うことになる。
カーネルシアの食欲を誘う魂胆か、ラグが別の干し肉を口に入れ、噛みちぎりながら言った。
「かなりな。無理に食べなくてもいいけど、少しずつ食べる量は増やしたほうがいい」
ヌーネイルの肉には元々独特の臭みがあったが、ヒバナ草の種でうまく消されている。多少ピリピリとした刺激を舌に感じるが、これくらいなら辛味が苦手でも食べられるはずだ。
カーネルシアはまだ唇を上下に動かし、手に持った干し肉を観察し続けている。その様子を見て、ラグがカーネルシアに探るように聞いた。
「肉、苦手だったか?」
「ん゛ん゛」
すぐに首を横に振ったカーネルシアだったが、への字に曲がりつつある口元を見る限り、気乗りしていないのは確かなようだ。
カズラはカーネルシアの持っている干し肉を取ると、半分に引き裂いて残りをカーネルシアの手に戻した。
「俺も食べるから、お前も食べろ」
これでカーネルシアが進んで食べるのなら、やはりカーネルシアはカズラの手前、遠慮していたことになる。
しかしカズラの予想は見事に外れ、カーネルシアの口が完全にへの字を描いた。
ため息をつきながら、カズラが干し肉を自分の口に投げ入れる。
「言いたいことがあるなら、はっきり言え。言わないと何も分からないだろ」
カズラの指摘に、カーネルシアが唇を今度は前へと突き出す。ラグは干し肉を噛み続けながら、2人のやり取りを興味深げに見守った。
「言ってもいい事と、いけない事があるだろう?」
カーネルシアは干し肉を千切りもせず、口に入れて強引に飲み込んだ。
「どういう意味だ。ラグの触った肉が嫌だったのか? それとも、人に恵んでもらうことが嫌なのか」
カズラの不躾な質問に、ラグが小さな目を細めた。
「カーネルシアが言ってはいけない事だと考えたなら、問いただして良いものじゃない。それに、嫌味を言うのもやめてくれ」
今度はラグまでもが、カーネルシアを真似て口をへの字に曲げた。




