第7章・55節『奇妙な音』
「お゛え゛ぇ゛っっっっっ」
あれから小1時間、甲板の手すりに辛うじてつかまり、ラグは膝をついてひたすら吐き気と戦っていた。カーネルシアが付き添うと言って聞かないため、カズラとルク・ミィアは折角座れた座席から離れざるを得なかった。
カズラは、風に揺れる樹上での収穫経験があったためか、初めて乗った船でも酔うことはなかった。そもそも、クースフローは猫同様、バランス感覚に非常に優れているのだ。ラグの青くなった横顔を、カーネルシアが興味深そうにしゃがんで見ている。
サヘー島の影が見える西の空は、すでに夕焼けに染められ、美しいグラデーションの背景を作り上げていた。船のあちこちにある電灯の光が、甲板や壁に幾つもの揺れる影絵を付け足している。
てっきりラグが心配で、介抱でもするのかと思ったが、カーネルシアはラグの反応が見たいだけのようだ。カーネルシアもまた、船酔いした者を初めて見たのだろう。
カズラは目を回しているラグを隣で見下ろしつつ、未だにラグから金を借りる気になれないでいた。
グレィマにたどり着けば、ラグもルク・ミィアも早々にいなくなるだろうと考えていた。だが、金を借りたとなると、そうはいかなくなるのだ。
しかし、船の上に金を稼げる仕事があるだろうか。乗船時、昨日の襲撃で警備の数が増えていると、乗客同士が話しているのを耳にしていた。
警戒中の今、身分証明書があっても、いきなり客を雇う訳がない。ましてや、ラジオなどで事件の重要参考人の情報を聞いていれば、いくら無関係だと言ったところで、カズラを信用するなどあり得ないだろう。
5月とは言え、グレィマの天候の知識が何もない以上、安易に野宿を決めるわけにもいかない。そもそも、グレィマに野宿できる場所があるかどうかすら分からないのだ。
「僕は宿に泊まらなくても大丈夫だ。どこでも寝られるからな」
深刻そうなカズラを、いつの間にかじっと見ていたカーネルシアが言った。
「カーネルシア、だめですよ! グレィマはサヘー島とは違います!」
ルク・ミィアが声を荒げて中腰になる。カーネルシアに目線を合わせ、肩に馴れ馴れしく手まで置いている。
「私があなたの宿代を出しますから、お金のことは何も心配しないで下さい」
カズラが口出しする前に、ルク・ミィアが早口で後を続けた。
「あ、カズラさんはラグさんにでもお金をお借りしたらいいと思いますよ」
怒りをどうにか鎮めようと、カズラは深呼吸をしつこいほどに繰り返した。カーネルシアとの生活が始まってもいないのに、ルク・ミィア如きに振り回される訳にはいかないのだ。
平静を装い、ルク・ミィアとラグにカーネルシアと大事な話があると言い、手を引いてその場から少し離れた。2人から姿を隠せはしなかったが、風下である事と波の音で、話の内容を聞かれはしないだろう。
「……お前はルク・ミィアに宿代を出してもらえ。俺は宿の外で野宿する」
苦渋の決断だったが、今晩に関しては、それしか方法が無いように思えた。
「カズラが野宿するなら、僕も一緒だ」
カーネルシアが、カズラの眉をハの字にする様なことを言ってくる。
サヘー島で彷徨い歩いていたカーネルシアにとって、野宿は慣れたものなのだろう。自然に埋もれたサヘー島だが、チァーラの森には狂暴な野生動物はいなかった。
しかし、グレィマでも安全に寝られるとは限らないのだ。
「俺は金を稼ぐ必要がある。宿以外に食べる物も必要だ。グレィマの物価も知らない。向こうに着き次第、仕事を探す。お前と一緒だと、それもままならないだろ?」
ルク・ミィアの感触を上書きするように、カズラの両手がカーネルシアの両肩に置かれた。
外套の上からでも、肉がなく骨ばっているのが分かる。
「お前は嫌だろうが、ルク・ミィアが出すと言うだけ金を出してもらうんだ」
ルク・ミィアは金を出すとは言ったが、貸すとは言っていないはずだ。カーネルシアに対して金を出すのなら、後で返せと言っては来ないだろう。
カーネルシアはしばらく何かを考えている様子で、ただ黙ってうつむいていた。そして、夕闇に溶け込まない青紫色の瞳を、再びカズラに向けた。
「カズラの言う通りにしよう。君を尊重しているからな」
カーネルシアの最後の言葉に、カズラの耳としっぽが同時にぴくりと動いた。
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カズラがカーネルシアに何を吹き込んでいるのか分からなかったが、ルク・ミィアは視線をカーネルシアから離さなかった。
ハリヌ器の入った長鞄を甲板に下ろし、暗くなっていく中で存在をアピールしているように腕を回す。薄いベージュのコートの下から、チャコールグレーのスーツがのぞいた。
「頼む……何か……気がまぎれることを……話してくれ」
ラグは手すりの下段にしがみ付き、か細い声でルク・ミィアに懇願した。まるで鈍器が頭蓋骨の中で転がり回っているようだった。
目の前にあるルク・ミィアの膝丈の編み上げブーツを見つめ、吐き気から逃れるように必死で紐の段数を数える。
「気がまぎれることですか? そうですねぇ」
ルク・ミィアはカーネルシアを見つめたまま、適当に記憶を手繰り始めた。
「サヘロディの神炎の話があったので思い出しましたが……各地で聞いたサヘロディに関する話は、どれも笑える物でしたよ。サヘロディは機械で出来ていたとか、人工知能だとか、夜な夜な魔法少女に変身していたとか、古代兵器が意識を持った姿だとか」
ラグが酔っているように鞄の紐を解き、中から冊子を取り出して余白にそれを書き始める。
「こんなものを書き留めておくんですか?」
「あ……いや……何かしていたほうが……ぐえっ」
そこでラグは言葉を切り、しばらくもどしそうになる喉と格闘して天を仰いだ。
「さすがに……魔法少女は……ないか」
書いたものを見下ろして真顔になった後、カバンから消しゴムを取り出して消す。ジュクバナの樹液で作られた茶色の練り消しゴムは、花と同じ香りが微かにしていた。
「それ以外も眉唾物だと思いますけど。他にも故郷の星、ベュー・ルガテカーを本当は破壊してきたとか、人間の脳をおやつにかじっていたとか、尻から破壊光線を出したとか、子供を誘拐して培養していたとか。人の想像力はたくましいですよね」
ルク・ミィアはカーネルシアからようやく目を離すと、何気なくラグの冊子を見下ろした。
そこには、大量の落書きと思しき下手な絵と、小さな文字が不規則にびっしり書き込まれていた。花や実の絵のほかに、ドクロやうんこ、猫などのいたずら描き、食べ物のように見える絵も描かれている。
「……読めるんですか? それ」
ラグはルク・ミィアが冊子の中を見ている事に気づき、慌てて冊子を閉じて鞄の中にしまい込んだ。
その時、ラグの耳が聞き慣れない音をとらえた。
[ロロロ……]
しかし、不定期にぶつかる波のせいで、方角を探る前に音は耳からこぼれてしまった。船から来たものかと思ったが、海中から聞こえてきたようにも思える。
ラグは鞄のショルダーベルトを握り、手すりにつかまって弱々しく立ち上がった。夕闇が濃くなっている事にようやく気付き、ゴーグルを外した目が不安そうに海面を見つめる。
コロコロモが幻想的な光の帯を幾筋も作っており、船のしぶきで煽られ、名前通りころころと水面を転がっていくのが見える。
カズラとカーネルシアが話し終えたらしく、ルク・ミィア達のもとに向かって来た。
「なぁ、変な音が……海から」
ラグが輪をかけて青ざめた顔で振り返る。
カーネルシアも、ラグが見つめていた海面の方を見ている。ルク・ミィアとカズラの耳が、音を探るために何度も角度を変えた。
「音?」
カズラがつぶやくや否や、船が下から突き上げられたかのように、大きな波を越えた。乗客の荷物が動き、ルク・ミィアが置いていた長鞄を慌てて背負った。
[ロロロロロロロロロロ……]
今度こそ、全員の耳にその奇妙な音が聞こえた。
「ロロだ!! おい!!」
乗組員が悲鳴のように叫びだした。海面が大きくうねり、船の下に白銀色の巨大な何かが泳いでいるのが見えた。
「ロロって……ロロ!?」
驚きで吐き気が収まったのか、ラグが目を丸くして手すりの下をのぞき込む。カポイ液で煮られたロロを、今朝食堂で食べたばかりだ。切り身で泳いでいるとは思わないが、ロロの姿を見たのはこれが初めての事だった。




