第4章・28節『金がない』
「デュ……デュ……ううん……」
脱衣所の隣にあったトイレに入りながら、ラグはそれの正式名称を思い出せずに最初の音を繰り返していた。持ってきた鞄の中から、波打つ冊子を取り出しページを探す。
「あぁ、デュケーセ・ヘーナーだ」
その昔、サヘロディが人の糞尿や生ごみ、挙句の果てには遺体までを分解するため、作ったと言われている菌の名だ。それを利用した小型の浄化設備のお陰で、地下でも清潔なトイレが使用できている。
ラグは用を足した便器に、専用容器の中からデュケーセ・ヘーナーをかけ、浄化槽へと落とすための紐を引いた。
サヘロディの神炎。
熱でうとうとしていた時に聞こえてきていた、ルク・ミィアの話。ゴンゾー街で見たあの男は、本当にサヘロディだったのだろうか。
サヘロディは、キーイーらィの者達を守った結果、人の社会から追放された。セルデンサローは、キーイーらィの放ったカビの残骸を恐れて逃れ、サヘロディの存在を否定した者達によって作られた国だった。
キメラ種が人口を増やし、後から作られたグレィマの人口が、セルデンサローに肉薄した。そのために、長く人間だけの国であったセルデンサローにも、キメラ種の入国が許される事となった。
存在を否定しながらも、チァーラの実、その中のランデル、そしてこのデュケーセ・ヘーナーも含め、人々は未だにサヘロディの恩恵を受け続けている。
(本当に、彼がサヘロディだとしたら……)
ラグは手洗い場を使いながら、急に胸が痛む思いがした。
(サヘロディだとしたら?)
だとしても、何だと言うのだろう。神がいたとして、ラグの世界は何かが変わるのだろうか。
サヘー島の特別保護区で、チァーラの木を研究する日々が、別のものに変わるのだろうか。神が居ようが居まいが、神の痕跡をなぞるラグの行為は変わらないのだ。
「いつまで手を洗っているつもりだ」
顔を洗いに来たカズラが、狭い手洗い場で流水にずっと手を当てているラグを、迷惑そうに急かした。ラグは飛び上がるほど肝を冷やし、取り繕うように苦笑しながら場所を空けた。
「ラグ、おはよう」
カーネルシアが、カズラの背後から顔を半分だけ出して、ゆっくりと挨拶した。
「おはよう……。俺だけ寝床に寝て、ごめんな。あんな床じゃ、よく眠れなかっただろ?」
カズラの様子も遠慮がちに視界に入れながら、ラグが申し訳なさげに頭を下げた。寝床とは言え、枕や毛布すら無かったのだが。
顔を洗い始めたカズラのしっぽが、別の生き物のようにふらふらと左右に揺れる。カーネルシアが、それに気を取られつつ笑顔を作った。
「気にしなくていい。熱が下がってよかったな。ラグはこれからどうするんだ?」
そのカーネルシアの質問に、ラグがどことなく寂し気な視線を床へと落とした。
「ポルポにちょっと頼みごとをしてから、一応ゴンゾー街に戻るつもりだ」
顔を洗い終え、両手で水滴を拭い取っているカズラの耳が後ろを向く。
「そうか。僕はカズラとグレィマに行くんだ」
勝手な事を言うカーネルシアに、カズラがため息をつきながら振り返った。
「俺達もゴンゾーに帰るぞ。今ならまだ、傷が浅くてすむ。どこに行くにしても、身分証明書と金がないと始まらない」
出鼻をくじかれたカーネルシアは、不満があるように唇をむにむにと上下させた。
「私もお供しますよ、カーネルシア」
いつの間にか背後に立っていたルク・ミィアが、これ以上無いほどの優しい声色でカーネルシアにすり寄った。
「何でだ」
カズラが険しい表情でルク・ミィアを牽制する。
「乗っていた船が難破したんですよ? 最寄りの港に行って、もう1度船に乗るに決まっているでしょーが」
その殺気を押し返すように、ルク・ミィアが応戦する。
カズラに何か策がある訳ではなかったが、これ以上地下にいても、じり貧になるのは確かなのだ。
カズラが稼いだ金は、兄達に家の修繕費だの生活費だのと言われ、ほとんどが奪われていた。残った微々たる金も、いつか村から外に逃げ出す元手として、家の天井裏に隠してある有様だ。
このままでは、カーネルシアに今日の飯すら喰わせてやれない。世話をすると決めたからには、自分を捨てた両親と同じ轍を踏みたくはなかった。
ラグが、そんなカズラの心内を探るように声をひそめた。
「治安維持部隊には、どう言うつもりだ?」
「正直に言うしかないだろ。俺は何もしていないんだからな」
カーネルシアは唇をまだむにむにと動かし、カズラのしっぽに視線を張り付かせている。言いたい事があるのか、単に癖なのか、全く読めない顔だ。
「心配するな。村に入れるように俺が何とかする。金が貯まったら、グレィマだろうがセルデンサローだろうが、どこへでも好きに連れて行ってやるぞ?」
カズラはラグとルク・ミィアの間をぬい、カーネルシアの手を取ってその場を去った。




