第3章・19節『ブヨ袋』
(死ぬ)
カズラは宙を舞いながら、全身の血が一瞬で凍り付く様に感じた。
(こんな事で)
ラグが、軌道自転車を使った事を激しく後悔しながら飛んだ。
永遠とも思えたその時間は、突然の衝撃であっけなく終わりを告げた。全身が何かに叩きつけられると同時に、弾力のある物で包み込まれた。そして逆に弾き返され、体のバランスを取る前に、暗く冷たい水の中に頭から落とされた。
重い腕をかき回し、頭をどうにか水面に出して息を吸う。
「ぶはッ!!」
カズラは死に物狂いで縁へ泳ぐと、体を水の外に急いで引き上げた。
振り返ると、暗い地底湖の底に自転車がゆっくりと沈んでいくのが見えた。湖の中の微生物が、水の動きにでも反応しているのか、底が淡く青色に発光している。その光で、ぼんやりと湖の周囲が浮かび上がった。
水中にカーネルシアとラグの姿が見えず、カズラは肝を冷やした。しかし、その隣で何食わぬ顔をしたカーネルシアが、既にラグを小脇に抱えて岸に上がっていた。
「ラグは泳げないんだな」
カーネルシアの細い腕に抱えられたラグは、小さな目を更に小さくし、寒さと恐怖の余り激しく震えていた。
2人の姿に安堵のため息を漏らしながら、カズラはずぶ濡れのカーネルシアに呆れた顔を向けた。怒る気力もない。いやしかし、カーネルシアの動きだけが原因で脱線したとも言えない。
最初にラグが調子に乗って、こぎ過ぎたのだ。
そのカズラの視線に気づいたのか、カーネルシアが髪から水をしたたらせながら、いびつに笑った。
「面白かったな」
カズラは更に全身から力が抜け、湖岸の岩場に大の字で引っくり返った。
ラグが何やらぶつぶつと言いながら、鞄を開いて気落ちした顔をしている。水に濡れると困る物でも入っていたのだろう。こういう時、何も持っていないのは気が楽でいい。
カズラは着ていた風防服を脱いで絞り、しっぽと頭を強く振って水気を飛ばした。カーネルシアも無表情でそれを真似、ありもしないしっぽを振っているように、尻をぎこちなく左右に動かしている。
岸には奇妙に膨れ上がった、ぶよぶよとした大きな何かが、湖を囲むようにいくつも並んでいた。これが衝撃を和らげたお陰で、カズラ達は死なずにすんだのだ。
「大玉のブヨ袋だ……。『外』ではあまり生えてないと思うけど、昔、湿気袋って呼ばれてた藻の一種だよ」
カズラの視線を追ったラグが、謎の物体を見て解説した。酷い名前に目を細めながら、カズラは立ち上がって辺りを見渡した。先ほどまで青く光っていた湖は、すでに闇の中に没している。
「このままだと風邪を引く。集落は近いのか?」
湖の対岸には5メートルほどの崖が見えており、上に棒茸の光が崖の輪郭線を浮かび上がらせていた。恐らく崖の上にレールが敷いてあり、カズラ達はそこから下のブヨ袋目掛けて落ちてきたのだろう。
「ここから30分ほどで着くはずだ。崖は登れそうにないから、あそこから水路沿いに進む事になるな……」
ラグはそう言うと、崖とは逆の壁を指さした。
そこには、湖へと水を流し込んでいる裂け目があった。水量は多くなかったが、黒い亀裂が上部に向かって不気味に伸びている。この寒さに水路沿いとは、つくづく運が悪い。
裂け目の奥からは風が吹いてきており、ラグは大きくくしゃみをすると、暖を取るために両脇の下に手を入れた。
「カーネルシア、水中で助けてくれて助かったよ。お陰で命拾いした」
ゴンゾー街でラグの買った物の大半が、湖で駄目になってしまったが、命の代わりに差し出したのだとラグは思うことにした。しかし、冊子だけは早急にどこかで手に入れなければならない。あれが無いと、ラグの活動がままならないのだ。
「村に着いたら、君達はどうする気だ?」
水流のしぶきで濡れた岩々を、慎重な足取りで進みながら、後ろに続くカズラ達にラグが質問した。その肩にかけられた大きな鞄の中身が、水の流れをまたぐ度に重そうな音を立てる。
カズラの耳が、思い出したくない事を突き付けられたように、げんなりと下がる。
「僕はカズラとグレィマに行くんだ」
そんなカズラを差し置いて、カーネルシアが返事をした。
驚くあまり丸くなったカズラの目が、後ろを歩いていたカーネルシアに移される。
「身分証明書がないのに、どうやってグレィマに入るつもりだ」
やはりサヘー島に帰って、然るべき手続きを取った方がいいのだろう。自身に起きたことを正直に話せば、あるいは……
「身分証明書がないのか?」
ラグがカズラの言葉に反応し、足を止めて振り返った。その声には、明らかに動揺と不安の色が表れていた。
「俺はコワト村の者だ。不審者にゴンゾー街に連れてこられて、持ち物をすべて奪われた」
カズラはラグの不安を拭おうとしつつも、忌々しそうな目つきでラグをにらんだ。
「カーネルシアもコワト村に住んでいるのか?」
ラグがまた足を動かし、少し離れた次の岩に飛び移る。カーネルシアが答える前に、カズラが割り入って口を挟んだ。
「コワト村に入る予定だった。村で騒ぎが起きたせいで、台無しになったが」
それを聞いたカーネルシアの顔が、少しほころんだように輪郭を変えた。
「カズラはやさしいにゃんにゃんなんだ。だから、ラグもカズラと仲良くしてあげてくれ」
深い岩の空間に、カーネルシアの声が反響する。カズラとラグの目が点になり、2人が同時に立ち止まった。
「俺はクースフローだと言っている。猫と一緒にするな。それに、人から仲良くしてもらう謂れはない!」
カズラがむきになって声をあげる。ラグの肩が、暗がりでも分かるほどに震え始めた。
「大人はにゃんにゃんって言うんだ。クースフローや猫は、子供が使う言葉だぞ?」
真面目な顔で、カーネルシアがカズラに優しく教える。ラグが歪んだ口をどうにか閉じて、笑いをかみ殺そうと必死になった。
「にゃんにゃんの方が子供の言葉だ!!」
カズラはさらに声を張り上げ、そのしっぽをぷるぷると振り始めた。
「カーネルシア、カズラをからかうのは止した方がいい。クースフローは怒らせると面倒だ」
ラグの限界まで上ずった声に、カズラの紫の毛が逆立つ。どうして会ったばかりの者に、知ったような口を利かれなければならないのか。
面白いほど膨れていくカズラのしっぽを前に、カーネルシアは口を小さく丸く開くと、しっぽの先を素早く手でつかまえた。
「!?」
驚いたカズラがしっぽをカーネルシアの手から引き、倍になったしっぽを自分の腹に巻き付ける。
「触るな! 俺を怒らせたいのか!?」
カズラの髪まで傘のように開き、カーネルシアが青紫色の目を見開いた。
「怒ったニゃんニゃんだ!」
こらえ切れずにラグが噴き出し、足を滑らせて水の中に危うく落ちかけた。屈辱に歯を食いしばったカズラが、鼻息を荒くしながらラグを追い越した。




