第9話 師匠が本気を出す
十七日目、師匠が初めて一歩引いた。
◇
朝から晴れていた。
庭の紅葉が、先週より赤くなっていた。緑がほとんど残っていなかった。風が吹くたびに、葉が二、三枚落ちた。落ち葉を踏む音が、朝の庭に小さく響いた。
稽古は打ち合いから始まった。
アルトは今日、何かが違う気がしていた。体の感覚が、昨日までと少し変わっていた。重心がどこにあるか、自分でわかる気がした。
踏み込んだ。一合。二合。三合。
三合目に捌かれた。木剣は飛ばなかった。
「飛びませんでした」
「そうだな」
「もう一度いいですか」
「いい」
踏み込んだ。一合。二合。三合。四合。
四合目、アルトが先を取ろうとした。踏み込みの重心を意識した。捌かれた。しかし今度は違う捌き方だった。
「今の、変わりましたか」
「少し変えた」
「なぜですか」
「同じでは読まれる」
「読まれてましたか、俺に」
「四合続いた」
四合続いたことが、読まれていた理由らしかった。アルトはもう一度構えた。
◇
午後になった。
アルトは今日で一番長い打ち合いをした。
一合、二合、三合。読んだ。先を取った。踏み込んだ。
四合、五合。捌かれた。しかし今度は木剣が届いていた。届いた上で捌かれた。
六合目、アルトが重心を変えた。
七合目、踏み込んだ。
トネリアが、一歩引いた。
引いた、とアルトは気づいた。今まで引かなかった。今日初めて引いた。
「師匠、今引きましたか」
トネリアは木剣を下ろした。少しの間、アルトを見た。
「今日はここまで」
「まだできます」
「こなたが疲れた」
嘘だった。疲れていなかった。アルトにもわかった。
「師匠、引きましたよね」
「稽古を終わる」
「引きましたよね」
「飯にする」
飯になった。
トネリアが木剣を棚に戻した。今日は定位置に一発で収まった。
◇
夕飯のとき、アルトは聞いた。
「師匠、姉と面識はありますか」
唐突な質問だった。自分でも思ってから口に出た。
トネリアは答えなかった。一拍置いて、窓の外を見た。答えないことが、今日は長かった。
「……あるんですね」
「飯を食え」
「あるんですね」
「食え」
「あるということですね」
「芋がうまい」
「話を変えましたよね」
「変えていない。芋が本当にうまい」
アルトは黙った。あるのだ、とアルトは思った。今日の間の長さは、今までと違った。
芋を食べた。うまかった。それとは別に、頭の中で何かが動いていた。
◇
夕飯の後、アルトは庭に出た。
一人で立ってみた。目を閉じた。
何も聞こえなかった。何かが聞こえた。風が木の葉を揺らす音。遠くで鳥が鳴く声。落ち葉が地面に触れる音。
しばらくして、気配がした。
「何をしている」
「瞑想を試みました」
「そうか」
「うまくいったと思いますか」
「さあ」
「師匠はどうやるんですか」
「さあ」
「さあって」
「やっていれば分かる」
それだけ言って、トネリアは縁側に座った。二人でしばらく、暗くなった庭を見ていた。紅葉の残りが、夜の光の中で揺れていた。
◇
その夜、トネリアは道場に入った。
木剣を持った。素振りを、一回だけした。
七合、とトネリアは思った。七合続いた。引いた。引かなければならなかった。
師は、こなたが初めて引かせたとき、何も言わなかった。翌日から稽古の内容が変わった。それだけだった。
アルトに何と言うべきか、まだわからない。言葉では伝わらないものがある。師がこなたに言葉で伝えなかったように。
ソプラノのことを聞いた。答えなかった。答えられなかった。
あの子は気づき始めている。何かに。まだ何かはわからないだろうが、気づき始めている。
木剣を戻した。
遅れてきた可能性が、動き始めている。




