第10話 師匠が月を見る
二十日目の朝、庭に霜が降りていた。
初霜だった。草花の鉢の端に、白く薄く積もっていた。落ち葉の上にも霜がついていて、踏むとぱきりと音がした。
トネリアが縁側から庭を見ていた。茶を持っていた。飲む前に、一度冷ます。いつも通りだった。
「霜ですね」
「そうだな」
「冬になりますね」
「なるな」
「師匠、冬は寒いですか、ここ」
「寒い」
「かなり」
「かなり寒い」
「……覚悟しておきます」
「しておけ」
それだけ言って、トネリアは茶を飲んだ。霜の降りた庭を、しばらく見ていた。その目が何を見ているか、アルトにはわからなかった。
◇
稽古は午前中いっぱい続いた。
打ち合いで九合続いた。九合目に捌かれた。木剣は飛ばなかった。
「九合目まで打ち合いました」
「そうだな」
「先週より続きました」
「そうだな」
「これは良いですか」
「良い」
「かなり良いですか」
「良い」
同じ答えだった。どの程度良いのかわからなかった。
午後は見る稽古だった。十回中七回当てた。
「七回当たりました」
「そうだな」
「最初は全部外れてました」
「そうだな」
「師匠、俺、強くなってますか」
「なっている」
「かなり」
「なっている」
それだけだった。
稽古が終わって、トネリアが木剣を棚に戻した。今日も定位置に一発で収まった。アルトはそれをなんとなく見ていた。
◇
夕飯は少し特別だった。
芋とチーズが出た。それと、葡萄酒が二つ。
「今日は葡萄酒もありますか」
「そうだ」
「なぜ今日は」
「さあ」
「記念日ですか」
「さあ」
「何かありましたか」
「さあ」
トネリアは葡萄酒を薄めて飲んだ。アルトも薄めて飲んだ。
「やっぱりよくわからないですね、味が」
「そうだな」
「師匠もわからないんですよね」
「あまり」
「なぜ飲むんですか」
「習慣だ」
「俺も習慣になりますか」
「さあ」
芋がうまかった。チーズもうまかった。葡萄酒は相変わらずよくわからなかった。
◇
夜、アルトは眠れなかった。
天井を見ていた。九合続いたことを考えた。トネリアが引いたことを考えた。姉のことを考えた。ウィロウのことを考えた。
起き上がった。庭に出た。
トネリアがいた。月を見ていた。気配がしなかった。いつからいたかわからなかった。
「また眠れないんですか」
「そういうお前は」
「俺も」
「そうか」
並んで月を見た。しばらく何も言わなかった。月が少し傾いていた。庭の紅葉が、夜の光の中で暗く揺れていた。もう少しで葉が全部落ちる。
「師匠」
「なんだ」
「俺が姉に勝てると思いますか」
「なると言った」
「なると言いましたね」
「言った」
「でも勝ってどうするか、まだわかりません」
トネリアは月を見たまま、何も言わなかった。
「俺、姉に会いたいんだと思います。ちゃんと会いたい」
「会ったことはあるだろう」
「あります。でも、あの人が俺を見たことは、ないと思うんです」
トネリアが静止した。月の光の中で、その横顔が少し変わった気がした。
「見たことがない、というのは」
「俺のことを、弟として見たことがないと思います。ずっと、いないものとして扱われてきた気がして」
「……そうか」
「おかしいですか」
「おかしくない」
「でも復讐って言うと、勝ちたいだけみたいじゃないですか」
「そうではないのか」
「そうじゃない気がします。勝ちたいのは本当ですけど。ただ、見てほしいのかもしれない。俺のことを」
トネリアは何も言わなかった。
「師匠」
「なんだ」
「稽古を続けます」
「そうしろ」
「俺、もっと強くなれますか」
「なる」
「師匠より強くなれますか」
少しの間があった。
「さあ」
「さあって」
「なるかもしれない」
「なりたいです」
「そうか」
またしばらく黙って月を見た。
アルトは欠伸をした。
「眠れそうです」
「そうか」
「師匠は」
「もう少しいる」
「そうですか」
「おやすみ」
「……おやすみなさい」
アルトは部屋に戻った。
◇
トネリアは庭に残った。
月が傾いていた。紅葉が風に揺れていた。もう少しで葉が落ちる。そうしたら冬になる。
見てほしい、とアルトは言った。姉に。自分のことを。
師も同じことを言っていた。ずっと昔に。まだこなたが若かった頃に。師はこなたのことを見ていたか、とこなたは聞いた。師は少し考えて、見ていた、と言った。最初から、と言った。
こなたは何も言えなかった。
ウィロウ、とトネリアは月に向かって思った。この子はまだ、あなたが自分で試合を申し込んだことを知らない。あなたが自分で負けを選んだことを知らない。あなたがソプラノと今も一緒にいることを知らない。
それでもこの子は剣を磨いている。間違った理由で、本物の剣を磨いている。
いつか見える。正確に見えるようになる。そのときこの子は何を思うか。
遅れてきた、とトネリアは思った。遅れてきたが——来た。それで十分だ。十分でなくても、来た。
月を見た。月は何も言わなかった。
剣を、とトネリアは思った。剣を教えることしか、こなたにはできない。それで足りるかどうか、まだわからない。それでも。




