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第11話 師匠が雪の中にいた

 雪が降っていた。朝、目を覚ましたら庭が白かった。


 ◇


 アルトは布団の中から縁側の方を見た。


 戸が少し開いていた。


 冷気が流れてきた。秋の終わりの匂いとは違う冷たさだった。乾いていた。


 起き上がって、縁側に出た。


 庭にトネリアがいた。


 雪の中に立っていた。いつも装束。袖を帯に挟んでいなかった。亜麻色の髪に、雪が少し積もっていた。


 構えていた。


 木剣を持っていなかった。素手で、ただ立っていた。


 動かなかった。


 アルトは声をかけようとして、やめた。三日目の朝のことを思い出した。あのときは道場で瞑想していた。今は雪の中に立っている。同じことなのかどうか、わからなかった。


 寒かった。足の裏が冷たかった。


 それでも、戸口に立っていた。


 ◇


 どのくらい経ったかわからなかった。


 トネリアが、ゆっくりと動いた。


 素振りを一回した。


 雪の中で、一回だけ。


 亜麻色の髪から雪が落ちた。


 それで終わった。


「寒いぞ」


 振り返らないまま言った。


「見てました」


「知っている」


「いつから」


「最初から」


 アルトは縁側から庭に降りた。雪が足に刺さった。冷たかった。


「師匠、毎年やるんですか」


「初雪のときはな」


「なぜですか」


「さあ」


「雪の中で素振りをする理由が、何かあるんですか」


「さあ」


 さあ、で終わった。


 トネリアが縁側に上がった。素足だった。雪に濡れた足を、布で拭いた。


「稽古をするか」


「この雪の中でですか」


「そうだ」


「やります」


「そうか」


 ◇


 雪の中での稽古は、想像と違った。


 足が滑った。重心がいつもと違う場所に落ちた。踏み込もうとすると、足が取られた。


「取られるな」


「取られます」


「なら取られながら打て」


「取られながらですか」


「そうだ」


 取られながら打った。四合で木剣が飛んだ。雪の上を転がった。拾いに行ったら転んだ。


「転ぶな」


「もう転んでます」


「転びながら拾え」


 転びながら拾った。


 昼になった。雪がまだ降っていた。


「続けますか」


「飯にする」


「もう少しできます」


「飯が冷める」


 飯になった。


 ◇


 夕飯のとき、アルトは手を見た。今日は雪の中で転んだせいで、いつもより赤くなっていた。豆がまた少し硬くなった気がした。


「師匠」


「なんだ」


「雪の中でやる意味、今日はわかる気がしました」


「そうか」


「足場が信用できないと、重心だけが頼りになります」


 トネリアは茶を持った。一度冷ましてから飲んだ。


「そうだな」


「……合ってますか」


「合っている」


「本当に」


「本当だ」


 今日は「そうだな」だけで終わらなかった。アルトは芋を食べた。うまかった。


 ◇


 その夜、トネリアは庭に出た。


 雪が止んでいた。星だけがあった。


 足場が信用できないと重心だけが頼りになる、とアルトは言った。


 師も同じことを言っていた。嵐の後の泥の上で。足が取られるたびに剣が静かになっていく、と。


 静かになっていく。余分なものが剥がれていく。それだけが残る。


 アルトは今、余分なものを剥がされている。まだ本人はわかっていない。


 雪の上に、アルトが転んだ跡が残っていた。その跡の数を、トネリアは数えなかった。数えなくてよかった。


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