第8話 師匠の前で初めて怒る
その日初めて、師匠が一歩引いた——というのは翌日の話で、この日は熊がいた。
◇
十四日目の朝。
村の方から人が来た。山に熊が出た、という話だった。作物を荒らしている。冬眠前で動きが活発だ、と男は言った。困り顔だった。
トネリアは少し考えた。人差し指が口元にいった。
「行く」
「俺も」
「来なくていい」
「でも熊ですよ」
「来なくていい」
アルトは弓を取り出そうとした。道場の端に一本あったのを知っていた。
「弓はいらない」
「でも熊ですよ」
「いらない」
「剣でやるんですか」
「そうだ」
「熊をですか」
「そうだ」
「……本当に」
「行ってくる」
「俺も」
「留守番をしろ」
アルトは留守番をした。
――
昼過ぎにトネリアが帰ってきた。
装束に土がついていた。袖の端が少し汚れていた。それと——大きな包みを持っていた。
「どうでしたか」
「飯にする」
「熊は」
「片付いた」
「剣で、ですか」
「そうだ」
「怪我はないですか」
「ない」
「……すごいですね」
「もらってきた」
「何をですか」
「肉だ」
「熊のですか」
「そうだ」
「食べるんですか」
「食べる」
「熊を」
「精がつく」
その夜、熊の肉を食べた。うまかった。芋とは違ううまさだった。
「うまいですね」
「そうだ」
「師匠が剣でとったんですね」
「そうだ」
「……すごいですね」
「芋もうまい」
「今日は肉の方がうまいですよ」
「そうか」
それで夕飯が終わった。アルトはその夜、熊と師匠と肉のことを考えた。考えて、やめた。
◇
十五日目。
朝から雨だった。道場で打ち合いをした。屋根に雨の音がした。
アルトの木剣が、今日は早く飛んだ。三合で飛んだ。
「拾ってこい」
拾った。
「もう一度」
また三合で飛んだ。
「今日は調子が悪いですね」
「そうだな」
「なぜですか」
「さあ」
「心当たりないですか」
「お前の心当たりを聞いている」
アルトは木剣を拾いながら考えた。昨日から少し、頭が別のことを考えていた。姉のことを考えていた。
「……姉のことを考えてました」
「そうか」
「集中が切れたと思います」
「そうだな」
「師匠、怒らないんですか」
「怒る理由がない」
アルトは木剣を構えた。
「もう一度いいですか」
「いい」
◇
午後、雨が強くなった。
打ち合いをやめて、見る稽古に切り替えた。三回に二回当たった。
「今日は当たりますね」
「そうだな」
「打ち合いより当たります」
「頭が働いているからだ」
「打ち合いだと頭が働かないんですか」
「感情が入ると曇る」
曇る、という言葉がアルトの頭に残った。
稽古が終わって、トネリアが木剣を棚に戻した。少し位置がずれていたのか、一度直してから置いた。
アルトは自分の手を見た。木剣を握り続けていた場所に、豆ができ始めていた。いつの間にできたのか、わからなかった。
◇
夕飯のとき、アルトは黙っていた。
トネリアも特に何も言わなかった。雨の音だけがしていた。
「師匠」
「なんだ」
「俺の母親、ウィロウっていうんですけど」
「そうだな」
「魔術に負けたんです。姉に。家から追い出された」
トネリアは箸を止めた。止めたまま、少し待った。
「それで俺も一緒に出ました。姉が嫌で」
「そうか」
「師匠、怒らないんですか」
「怒る理由をこなたが決めることはできない」
「俺が怒ってるんですよ」
「知っている」
「師匠は怒らないんですか。こういう話を聞いて」
トネリアはしばらく答えなかった。雨の音がした。
「怒っていないわけではない」
「怒ってますか」
「色々なことに、色々な感情がある。それだけだ」
「色々な感情、ですか」
「そうだ」
「怒りもありますか」
「ある」
「他には」
「他にもある」
それ以上は言わなかった。アルトも聞かなかった。
しばらく黙って飯を食った。
「師匠」
「なんだ」
「俺、姉に勝てるようになりますか」
「なる」
「本当ですか」
「なる」
断言だった。今までと少し違う言い方だった。アルトは芋を食べた。雨の音がしていた。
◇
夕飯の後、アルトは道場で一人で素振りをした。振りが少しずつ静かになっていった。静かになっていることに、途中で気づいた。
師匠の前で初めて怒った、とアルトは思った。怒鳴り返されなかった。怒られなかった。ただ聞かれた。
それが何なのか、うまく言えなかった。
◇
その夜、トネリアは文机の前に座っていた。
雨の音がしていた。
追い出された、とアルトは言った。ウィロウが負けて、家から出た。そういう話だと思っている。
違う、とトネリアは思った。ウィロウは自分で試合を申し込んだ。自分で負けた。自分で出た。追い出されたのではない。
しかしそれをアルトに言えない。言える日が来るかどうか、まだわからない。
なる、と言った。姉に勝てるようになる、と。嘘ではない。ただ——勝った先に何があるか。それをアルトが自分で見えたとき、この子は本当に強くなる。
ウィロウ、お前はこなたに何を頼んでいるのか。剣を教えることだけか。それとも——
という問いに、答えが出ないまま、雨が少し弱くなった。




