第7話 師匠は昔を語らない
触るな、と言われた。理由は去年も一人でやったから、だそうだ。
◇
十三日目の朝、台所でトネリアが保存食を作り始めていた。
冬の前に仕込むものがあるらしかった。発酵の匂いがかすかに台所に漂っていた。アルトは手伝おうとした。
「手伝いますか」
「いい」
「でも」
「いい」
「本当に」
「触るな」
縁側から見ていた。
無言で動く手が、稽古のときと少し似ていた。似ているが、違った。稽古のときは相手を見ている。今は材料だけを見ていた。
「師匠、それ毎年やるんですか」
「そうだ」
「一人で」
「そうだ」
「……手伝っていいですか」
「触るな」
「なぜですか」
「去年一人でやった。一昨年も一人でやった」
「だから俺もダメですか」
「……少し待て」
少し待ったら、簡単な作業だけ任された。
二人で黙って作業した。台所が少し温かかった。悪くなかった。
◇
昼過ぎ、また客が来た。
今回は女性だった。トネリアより少し若い印象の、落ち着いた装いの使者だった。今回、アルトは追い出されなかった。
「そちらが弟子さんですか」
使者がアルトを見た。
「……はい」
「おいくつですか」
「十五です」
「まあ」
使者はトネリアを見た。トネリアは「わたくし」の声になっていた。
「先日の件について、閣下よりご返答をいただきました。制度の縮小については、段階的に進める方針で——」
「承知しました」
「先生のご意向は」
「わたくしは引退の身ですので、特段の意向はございません。ただ——」
少し間があった。
「各領国の指導者には、それぞれご判断をいただければと思います」
「承知しました。先生がそのようにおっしゃるなら、殿下もご納得されるかと」
使者が帰り際、もう一度アルトを見た。
「よく似ていらっしゃいますね」
「……何がですか」
「失礼しました」
それだけ言って、使者は去った。
◇
アルトはしばらく、よく似ているという言葉を考えた。誰に似ているのか、聞けなかった。
「師匠」
「なんだ」
もうトネリアはいつもの声に戻っていた。
「あの人、何でしたか」
「使者だ」
「何の使者ですか」
「上の方からの使者だ」
「師匠、国に関係してたんですか」
「昔はな」
「今は引退、ですか」
「そうだ」
「でもまた来ましたよ」
「来た」
「なんで来るんですか」
「用があるからだろう」
また同じ答えだった。
◇
夕飯のとき。
「師匠は、弟子が俺以外にもいるんですか」
「昔はいた」
「今は俺だけですか」
「そうだ」
「なぜ俺だけですか」
「こなたが決めた」
「それは理由ですか」
「理由だ」
「また同じこと言いますね」
「同じことだからだ」
アルトは芋を食べた。
「師匠、昔のこと教えてもらえますか」
「何をだ」
「何でも。弟子のこととか、昔の稽古のこととか」
「なぜ知りたい」
「師匠のことがわからないので」
「わからなくていい」
「でも」
「稽古に関係ない」
「師匠、姉も知ってますか。俺の姉」
今日のトネリアの間は、昨日より長かった。一拍置いて、窓の外を見た。
「……知っているだろう」
「知っているだろう、ってどういうことですか」
「知っている可能性がある、ということだ」
「会ったことはありますか」
「さあ」
「さあって」
「飯を食え」
食った。知っているだろう、という言い方が引っかかった。知っているか知っていないかのどちらかではないのか。聞いてもわからないだろうと思って、黙っていた。
◇
その夜、トネリアは縁側に座っていた。
よく似ている、と使者は言った。
師に似ている。あの構えが、あの目が、あの重心の取り方が。使者はそこまで知らないだろうが、見た目だけでも似ているのだろう。
師は長命だった。こなたが弟子になったとき、既に老いていた。それでも剣を持つと別人だった。
アルトも、木剣を持つと少し変わる。まだ本人は気づいていない。
姉も知っているだろう、と言った。嘘ではない。ソプラノはこなたを知っている。こなたもソプラノを知っている。ただ、アルトの前でそれを言える日が、まだ来ていない。
来るかどうかも、わからない。
縁側が、夜風で少し冷えていた。




