番外編 薄刃開眼
公の記録が拾わなかった話として、薄刃の称の起こりには、なお別の伝えがある。
剣聖・フォルテは縁側に座って、庭を見ていた。
信心の篤い人物で、家伝の剣術と祈りの作法を統合して、剣の聖とよばれた。
そのフォルテも壮年を過ぎ、老境に差し掛かる。
冬の朝だった。白砂に光が差していた。竹が風に鳴った。
「トネリア」
台所から出てきた。
「なんですか」
「座れ」
縁側に並んで座った。しばらく、二人で庭を見た。
「そなたも年頃だ」
「……そうですね」
「免許を出す。どこぞへ嫁ぐがよい」
トネリアは何も言わなかった。
「その前に、伝えておくことがある」
◇
庭に降りた。
フォルテが間合いを取った。十歩——いや、九歩半だった。
「合図をしたら打つ。受けてみろ」
トネリアは木剣を構えた。
「……それが幽刃ですか」
幽とは、見えぬほどという意味だった。
「さよう」
声色が一段、落ちた。
「―—十歩必殺」
踏み込みの音がしなかった。気配がなかった。気づいたとき、剣先がトネリアの眉間に迫っていた。
「これこそ―—」
フォルテは言いかけて、口をつぐむ。
木剣が、挟まれていた。
元より当てる気はない――寸止め。それでも反応もできないはずだった。
トネリアに受けられていた。
◇
フォルテは距離を取った。
「……これは白刃だ」
「はい」
「見えている剣は幽刃ではない。もう一度だ」
また構えた。今度は一歩分、近い。
打った。受けた。
もう一歩近く。打った。受けた。
また近く。また打った。また受けた。
五度。すべて受けられた。
◇
フォルテが上段に構えた。
「それは雷刀の構えですね」
「……ウィロウが見せたか」
トネリアは何も言わなかった。
「さよう。幽刃とは——縮地、雷刀、観眼、その他‥…。我が流の奥をまとめたものだ」
フォルテは少しの間、トネリアを見た。
「鉢鉄を付けろ」
「なぜですか」
「念のためだ」
木剣でも、頭を打てば命に関わる。言葉にはしなかった。
トネリアは鉢鉄をつけた。
踏み込んだ。今度の打ちは早さだけではなかった。重さだった。圧だった。
しゅかっ。
木と木の擦れる音だけがした。受け流されていた。
◇
フォルテは剣を下ろした。
「……今までのはすべて幽刃の位だった」
庭が静かだった。そこへ竹が風に揺られて、また鳴った。
「しかし、破られた。いかにして成した」
トネリアは少しの間、庭を見た。
「十年、そばにおりました」
「そうだな」
「師匠のお考えが、なんとなくわかるのです」
「……なんとなく、か」
「なんとなくが最初です」
また少しの間があった。
「強いて言えば……思い遣りにございます」
風が抜けた。
フォルテは何も言わなかった。しばらく庭を見た。それから、小さく頷いた。
「慈悲にも通ずる境地だな」
「……そうかもしれません」
「剣を納めろ。院にも話を通しておく。今後はそなたが継げ。幽刃も、そなたのものとする」
◇
トネリアは首を振った。
「いいえ」
「なぜだ」
「こなたは幽刃を見たとは言えません」
「受けたではないか」
「見えたから受けました。見えている剣は、幽ではありません」
フォルテが止まった。ため息をつく。
「それで、どうする」
「薄刃として継ぎましょう」
「薄刃」
「幽に至らぬ剣です。それがこなたの剣です」
少しの間があった。
「……勝手なことを言う」
「師匠はどう思いますか」
「好きにするといい」
◇
フォルテは縁側に上がった。茶を持った。一度冷ましてから、飲んだ。
トネリアはまだ庭に立っていた。
「ウィロウのことだが」
少しだけ間を置いた。
「……はい」
「あれは、そなたほど才はないようだ」
「……」
「何かあったとき、助けてやってほしい」
トネリアが振り返った。
「それはどういう意味ですか」
「そのままの意味だ」
少しの間があった。
「……わかりません。今は」
「そうか」
「師匠は、ウィロウ……さまをどうしたいんですか」
「さて……」
フォルテはまた茶を持った。飲む前に、少し待った。
「幽刃を受けたのは、そなたが初めてだ」
「そうですか」
「十年わしをそばで見たと言ったな。わしは剣祈一致を成し、自らを究めたと思っていた。だがそれでは足りなかったようだ」
「……はい」
「ウィロウはお前に技を見せに行っていたのだろう。わしの目を盗んで」
トネリアは答えなかった。
「あの娘なりの、思い遣りだったかもしれない」
また間があった。
「薄刃か―—それでいい。それで十分だ」
◇
その夜、トネリアは庭に出た。
月が出ていた。
フォルテは今日、「十分だ」と言った。師が初めてそう言った。
幽刃を受けた。しかし自分の剣が本物かどうか、まだわからなかった。
受けることと、使うことは、違う。
ウィロウは今日は庭に来なかった。剣を見せに来なかった。ここ数日、そうだった。
見せに来なくなったのがいつからか、正確にはわからなかった。
月を見た。月は何も言わない。
剣を、とトネリアは思った。剣を磨くことしか、こなたにはできない。それで足りるかどうか。
まだわからない。




