番外編2 最初の魔術
その日、魔術師ラルゴは朝から家にいた。
珍しいことだった。
冬にはまだ少し早いが、風だけはもう冷たく、朝の光もどこか薄かった。庭の土は乾いていて、木の影が細く落ちていた。家の中には、炭の匂いと、乾ききらない布の匂い、それから墨の匂いがあった。
ラルゴは居間の卓に向かっていた。紙を広げ、その上に幾つもの円と線を重ねていた。線は細く、迷いがなく、どこまでいってもまっすぐだった。ソプラノには文字よりそちらのほうが気になった。父の書く線はいつも、何かのかたちというより、何かの約束ごとのように見えた。
「おとうさま」
呼ぶと、ラルゴは顔だけ上げた。
「なんだ」
「今日はおしろへ行かないんですか」
「昼からだ」
「じゃあ、半分お休みですか」
「そうだな」
ソプラノは少しだけ嬉しくなった。父が家にいるだけで、部屋の中の空気が少し違う。静かなのに、ただ静かなだけではない。何かがこれから起こる前みたいな静けさになる。
台所のほうで、ウィロウが雑巾を絞る音がした。母は朝から水を使っていたらしく、袖口だけ少し濡れていた。
「ソプラノ、父様の邪魔をしないのよ」
「してない」
「今からする顔をしてる」
ソプラノは答えず、卓のそばへ寄った。父の手元には、小さな棒が置かれていた。金属の先に淡い色の希石をはめたもので、父がときどき持ち歩いているのを知っていた。触ってはいけないもののひとつでもあった。
「これ、なに」
「投影術の補助だ」
「補助って」
「なくてもできる者はいる。だが、あったほうが安定する」
「お父さまは、なくてもできますか」
「できん」
「じゃあ、あるほうがえらいです」
ラルゴは小さく笑った。
「そうかもしれんな」
その笑いがソプラノは好きだった。大きくは笑わない。けれど、少しだけ目元がほどける。その少しの変化を見たいと思って、つい余計なことを言う。
卓の上の紙を覗き込む。円がある。そこから伸びる線がある。線の先に、また小さな円がある。
「丸ばっかり」
「円は扱いやすい」
「どうして」
「円は内と外を分ける境界だからだ。世界を切り分けると言ってもいい」
「きりわけ……剣みたい」
父の指が止まった。
縁側から戻ってきたウィロウも、一度だけこちらを見た。
「少しだけな」
ラルゴはそう言って、また線を書き足した。
少しだけ、という言い方がソプラノには気に入らなかった。似ているなら似ているで、もっとそう言えばいいのにと思う。けれど父は、簡単なことほど言葉を少なくする人だった。
ソプラノは卓に肘をついて、その線をじっと見た。見ているだけで、自分にも光の線が引ける気がしてくる。もちろん引けるはずがない。そう思いながらも、指先はもう棒のほうへ伸びていた。
冷たい。
希石のざらつきが、思ったより指に残る。
「ソプラノ」
ウィロウの声がした。
ソプラノはもうそれを手に取っていた。
「返しなさい」
「ちょっとだけ」
「そのちょっとが一番危ない」
ラルゴは何も言わなかった。ただ、紙の上から視線だけを上げて、娘の手元を見ていた。
その目が、いつもより少し強い気がした。
ソプラノは、父がよくやるのを見たように、棒へ指を添えた。うまく持てない。少し重い。意味もわからない。けれど、わからないまま真似した。
何も起こらないはずだった。
だが、空気の張る音がした。
音だったのかどうかは、あとになってもわからなかった。ただ、目の前の何もない場所に、何かが引っかかったように見えた。薄い光の弧が、ひどく不安定なかたちでふっと浮いたのだ。
すぐ消えた。
それでも、確かに見えた。
部屋がしんとした。
外で誰かが薪を割る音が聞こえた。
「もう一度」
ラルゴが言った。
椅子を引く音がして、父が立っていた。いつの間にか、卓の向こうからこちらへ回ってきている。近かった。近くて、ソプラノは叱られるのだと思った。
でも、叱る顔ではなかった。
「もう一度やってみろ」
その声の低さに、胸がどきどきした。
「こう」
「そのまま持て。力を入れるな」
「でも……おもいよ」
「支えるだけでいい。握るな」
ソプラノは言われた通りにした。父の目が手元にある。こんなふうに見られたことが、たぶんなかった。
さっき浮いた線の場所を思い出そうとした。何をどうしたのか自分でもわからない。ただ、そこに何かあった気がする、その感じだけを追う。
空気が、また少し張った。
今度は前より長く、薄い光の輪が浮いた。歪んでいる。細いところと太いところがある。けれど、確かにそこにあった。
ラルゴが息を呑んだのがわかった。
次の瞬間、父は膝を折っていた。ソプラノの手を取る。手首に触れ、指先を返し、爪の色を見る。乾いた指だった。けれど、触れられたところだけ熱くなる。
「痛くないか」
「うん」
「熱は」
「ない」
「痺れるか」
「少しだけ」
ラルゴは、娘の指先を見たまま、もう一度「そうか」と言った。
ソプラノは、急に泣きそうになった。
嬉しかったのだと思う。父がいま見ているのは、紙でも、術式でも、どこか遠い戦場でもない。自分の手だった。自分の指先だった。
「もう一度だ」
「まだやるの」
「やれるか」
「やる」
すぐ答えた。答えてから、父が少しだけ笑った。
ソプラノはその笑いだけでも、もう一度やる理由になった。
三度目は、二度目より短かった。四度目は、何も浮かなかった。五度目で、また細い弧が出た。
「陣を想像……いや、幻視することで空間に投影できる、それが投影術の基礎だ……。だが……」
ラルゴは途中から何も言わなくなった。言わずに見ていた。見ているだけで、娘の指先が何を覚えるのかを確かめているようだった。
そこでウィロウが来た。
「もう終わり」
「まだだ」
ラルゴの声が少し硬くなった。
「この子は朝から何も食べてない」
「すぐ済ませる」
「すぐ済む顔をしてない」
「もう少しだけだ」
ウィロウは、ソプラノではなくラルゴを見た。それから娘の指先を見た。
「冷えてる」
「へいき」
「へいきじゃない。置きなさい」
ソプラノは、父と母を見比べた。どちらの言うことを聞けばいいのかわからなかった。けれど、父が「最後だ」と言ったので、その言葉を信じてもう一度だけ持った。
輪は、今まででいちばん綺麗に浮いた。完全な円ではない。だが、途切れかけながらも、確かに半分以上つながっていた。
ラルゴはしばらく黙った。
やがてそれを受け取り、娘ではなく、ウィロウを見た。
二人のあいだに、短い沈黙が落ちた。
ソプラノにはその意味がわからない。ただ、喜んでいいことが起きたはずなのに、二人ともすぐには何も言わなかったことだけが少し不思議だった。
「このことは、まだ他で言うな」
ラルゴが言った。
「どうして」
「まだ早い」
「すごいことなんでしょ」
「そうだ」
「だったら言いたい」
「言うな」
いつもより強い声だった。
ソプラノは口をつぐんだ。叱られたのではないのに、叱られたような気がした。
ラルゴは少し間を置いてから、声を戻した。
「喜ぶのはよい。だが、まだお前の中に置いておけ」
意味はわからなかった。
わからなかったけれど、自分の中に何か大事なものができたのだという気はした。
食事のあと、ラルゴは紙を片づけなかった。代わりに小さな板と墨を持ち出し、縁側へ出た。ソプラノを手招きする。
「座れ」
ソプラノは正座した。ウィロウは少し離れたところで、昼に使った器を拭いている。
ラルゴは棒の先で一本の線を引いた。細く、まっすぐな線だった。
「これは何だ」
「せん」
「そうだ。線だ」
もう一本引く。わずかに歪む。
「これは」
「へんな線」
「そうだ。へんな線だ」
ソプラノは笑った。ラルゴも少しだけ笑った。
「魔法陣は、円や記号の集まりに見える」
「うん」
「だが、最初は線だ」
「せん」
「線が崩れていると、全部が崩れる」
ラルゴは棒を差し出した。
「やってみろ」
ソプラノはそれを持った。最初の一本は、思ったよりずっと曲がった。二本目はもっとひどかった。
「もう一度」
三本目で少しましになった。
ラルゴは短く頷いた。
「そうだ」
それだけで、胸が熱くなった。
「丸はまだだ。まずは線を崩すな」
「どうして」
「丸は見た目をごまかせる。線はごまかせない」
ソプラノはその言葉を半分だけわかったような顔で聞いていた。意味はよくわからなくても、父がいま本気で話していることだけはわかる。
「見る形に気を取られるな」
「みるかたち」
「そうだ。うまく見えることより、崩れないことを先に覚えろ」
「むずかしい」
「そうだろうな」
「おとうさまも最初はできなかったの」
「できなかった」
「ほんとに」
「本当だ」
「うそ」
「そう思うなら、なおさら見ておけ」
ラルゴは新しい線を引いた。速くはない。だが迷いがない。ソプラノはその指先をじっと見た。紙に術式を引くときの手と、さっき自分の指を取った手が、同じ手なのだと初めて思った。
しばらくして、ウィロウが湯を持ってきた。ソプラノの横に置き、指先にそっと触れる。
「今日はここまで」
「まだやる」
「だめ」
「できるもん」
「できるのと、やるのは違う」
ラルゴが小さく息を吐いた。
「あと二本だけだ」
「一本にして」
ウィロウが言う。
「二本でもそんなに時間はかからない」
「一本」
少しの間があった。
「……ソプラノ、あと一回だけやろう」
言い合いはそれだけだった。声は低く、怒っているようには聞こえなかった。
ソプラノはその一本を、いちばん丁寧に引いた。父が見ていて、母が隣にいる。それだけで、何でもない線が少し大事なものになる。
◇
その夜、日が落ちてからも、ソプラノは昼のことばかり考えていた。父が自分の手を見たこと。線が浮いたこと。誰にも言うなと言われたこと。全部がよくわからないまま、胸の中で光っていた。
寝る前に、水を飲みに起きた。
襖の向こうで、父と母の声がしていた。大きくない。聞こうとしなければ聞こえないくらいの声だった。
「……春には、わたしも指南役に戻るつもりだった」
それがウィロウの声だとわかるまで、少しかかった。
「急ぐことはない」
ラルゴの声。
「急いでるんじゃない」
少し間があった。
「遅くなるのが嫌なだけ」
また間があった。
「わかっている」
「本当に」
「わかっている」
それきり、何を言っているのかわからなくなった。ソプラノは襖の前に立ったまま、首を傾げた。戻る、というのが何を意味するのか、その時の自分にはわからなかった。ただ、母の声が昼とは少し違って聞こえたことだけは覚えている。
床へ戻り、布団にもぐる。
目を閉じると、昼の細い光がまた浮かぶ気がした。父が見ていた線。自分の指先。母の手の温かさ。どれも別々なのに、同じ日のことだった。
眠る前、ソプラノは布団の上に指で一本、見えない線を引いた。
曲がった気がした。もう一本引いた。今度は少しだけまっすぐだった。
そのとき、父に見つけられたのだと、もちろん本人はまだ知らない。
ただ、あの日からだった。
父が娘を見る目が少し変わったのも、
母が黙る時間が少し増えたのも、
ソプラノが、魔術を褒められることと自分が認められることを、同じものだと思いはじめたのも。
朝になれば、また線を引くだろうと思いながら、ソプラノは眠った。




