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第5話 師匠は怒らない

 九日目の朝。


 廊下を歩いていたら、道場の戸が少し開いていた。


 中が見えた。


 トネリアが背中を拭いていた。装束の上を脱いで、濡れた布で背中を拭いていた。白かった。


 アルトは一瞬で引き返した。自分の部屋に戻った。布団の上に座った。


 しばらくそのままでいた。


 ◇


 稽古が始まった。


「打ち込んでこい」


「木剣でいいですか」


「いい」


 アルトは打ち込んだ。五合で木剣が飛んだ。庭の端まで転がった。


「拾ってこい」


 拾ってきた。


「もう一度」


 また四合で飛んだ。


「また拾ってこい」


「また飛びますよ」


「飛んだら拾えばいい」


 飛んだ。拾った。


 三回目は六合続いた。六合目に捌かれて、木剣が手の中で止まった。飛ばなかった。


「今のは飛びませんでした」


「そうだな」


「なぜですか」


「力ではなく重心で打った」


「してましたか、俺」


「していた」


 していたらしかった。アルトには自覚がなかった。


 午後の稽古でも、アルトの予測精度は戻らなかった。


「今日は当たらないな」


「……そうですね」


「何かあったか」


「ないです」


「そうか」


 なかったことにした。


 ◇


 午後遅く、打ち合いの途中でアルトが舌打ちをした。捌かれたあとに、反射的に出た。出てから気づいた。


「今、舌打ちしました」


「した」


「すみません」


「謝らなくていい」


「でも」


「稽古中に感情が出るのはよくある」


「怒らないんですか」


 トネリアは木剣を下ろした。少し考えるような間があった。人差し指が口元にいった。


「怒る理由がない」


「俺、舌打ちしましたよ」


「した」


「師匠に向かって」


「そうだな」


「それでも怒らないんですか」


「お前が自分で気づいた。こなたが怒る必要はない」


 アルトは何か言おうとして、やめた。


 怒らない人間というのが、あまり身近にいなかった。街では、舌打ちをしたら怒鳴り返される。それが普通だと思っていた。


「師匠はいつ怒るんですか」


「さあ」


「怒ることはありますか」


「あるだろう」


「見たことないです」


「まだ十日も経っていない」


 それはそうだった。アルトは木剣を構えた。


「もう一度いいですか」


「いい」


 ◇


 稽古が終わって、トネリアが木剣を道場に戻した。今日は位置が合っていたのか、そのまま棚に置いた。


 今日の夕飯は少し違った。


「チーズですか」


「そうだ」


「買ってきたんですか」


「あったから買った」


「うまいですね」


「そうか」


「師匠は好きですか」


「嫌いではない」


「芋とどちらが好きですか」


 トネリアは一拍置いて、窓の外を見た。


「さあ」


 芋が出た。うまかった。チーズもうまかった。


 ◇


 夕飯のとき、アルトは少し黙っていた。


「師匠」


「なんだ」


「俺、姉が嫌いです」


「そうか」


「でも会いたいです」


「そうか」


「おかしいですか」


 トネリアは少しの間、アルトを見た。


「おかしくない」


「でも嫌いで会いたいって」


「嫌いだから会いたいことはある」


「師匠もそういう人がいますか」


 トネリアは答えなかった。答えなかったが、今回は間がなかった。すぐに茶を持った。一度冷ましてから飲んだ。それが答えのような気がした。


「飯、うまいですね」


「そうか」


「今日はチーズもありましたね」


「そうだ」


「たまに出るんですか」


「あったときだ」


「またありますか」


「さあ」


 それで夕飯が終わった。


 ◇


 その夜、トネリアは文机の前に座っていた。


 筆は持っていなかった。


 嫌いで会いたい、とアルトは言った。


 師も、そういうことを言っていた。ずっと昔に。こなたが師の下を離れる前の夜に。師は笑っていた。嫌いではないが、会いたくない人間もいると。


 どちらが難しいか、とこなたは聞いた。師は少し考えて、会いたくない方だ、と言った。なぜか、と聞いたら、会わなくていい理由をいつまでも探すからだ、と言った。


 アルトは今、会いたい理由を探している。それはまだいい方かもしれない。


 そう思いながら、こなたも同じことをしていた、ずっと昔に。


 会いたくない理由を、いつまでも探していた。


 庭で風が鳴った。


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