第4話 師匠と魔術
静かにしろ、と師匠は言った。水やりの最中だった。
◇
八日目の朝、アルトは早く起きた。
庭に出ようとして、止まった。トネリアが庭の隅にいた。小さな鉢がいくつか並んでいて、そこに水をやっていた。
「師匠、おは」
「静かにしろ」
「……おはようございます」
「静かにしろ」
アルトは黙った。
トネリアは水をやり続けた。鉢から鉢へ、ゆっくりと移った。急いでいなかった。急ぐ必要がない動きだった。
庭の端に、紅葉が始まりかけた木があった。まだ緑の方が多かったが、端の方から少しずつ赤くなっていた。朝の空気に、落ち葉の匂いがかすかに混じっていた。
水やりが終わった。
「稽古を始めるか」
「今のはなんだったんですか」
「水をやっていた」
「なぜ静かにしなければならないんですか」
「うむ」
うむ、で終わった。アルトは構えた。
◇
庭で一人で構えた。背中で距離を測る感覚を確かめたかった。
しばらくして、気配がした。振り返らなかった。背中で測った。縁側に、人がいた。
「おはようございます」
「振り返らなかったな」
「測ってみました」
「どうだった」
「縁側にいると思いました」
「正解だ」
正解だった。アルトは少し気分が良くなった。
「続けろ」
続けた。
◇
昼の稽古で、アルトは初めてトネリアの次の動きを三回続けて当てた。
三回目を当てたとき、トネリアが止まった。
「もう一度」
四回目は外れた。
「惜しいですか」
「三回続いた」
「四回目は外れました」
「三回続いたことの方が重要だ」
「なぜですか」
「考えろ」
考えた。昼飯を食いながら考えた。食い終わっても答えが出なかった。
「わかりませんでした」
「そうか」
「ヒントはないですか」
「ない」
「少しだけ」
「ない」
ないらしかった。
◇
夕飯のとき、アルトは聞いた。
「師匠、俺、強い人に会いたいんです」
トネリアは箸を動かしたまま聞いていた。
「何のために」
「勝ちたい人がいます」
「誰だ」
アルトは芋を一口食べた。
「姉です」
トネリアが箸を止めた。一瞬だった。また動いた。
「姉が強いのか」
「魔術をやってます。強いと思います。俺より絶対強い」
「今は、な」
「今は、ですか」
「今は強い、ということだ」
アルトはその言い方が少し引っかかった。今は、というのは、いずれは違うという意味なのか。
「師匠、魔術師と戦ったことありますか」
「ある」
「勝ちましたか」
「ある程度はな」
「ある程度、ですか」
「全部に勝てるわけではない」
「どういうときに負けますか」
「間合いに入れないときだ」
「入れれば勝てるんですか」
「入れれば勝てる」
「入れないときは」
「工夫する」
「どんな工夫ですか」
「それを知りたければ、もう少し強くなれ」
強くなればわかる、という話らしかった。アルトは黙って飯を食った。
「師匠、俺が姉に勝てると思いますか」
トネリアは一拍置いて、窓の外を見た。
「それは」
「なんですか」
「今答える問いではない」
「今じゃなかったら、いつですか」
「お前が答えを出すときだ」
またわかるような、わからないような話だった。
◇
縁側から庭を見ていると、紅葉が夕方の光の中で少し赤く見えた。
「きれいですね」
「そうだな」
「師匠、好きですか、こういうの」
「嫌いではない」
「毎年見てるんですか」
「そうだな」
「何年くらい」
トネリアは少しの間、庭を見た。人差し指が、口元にいった。
「……さあ」
さあ、が今回だけ少し違う色をしていた。アルトには分からなかった。
◇
その夜、台所でトネリアが珍しいものを出した。
「それは」
「葡萄酒だ」
「飲むんですか」
「飲む」
「水で薄めてますよね」
「そうだ」
「なぜ薄めるんですか」
「濃いと頭が痛くなる」
「なぜ飲むんですか」
「習慣だ」
「うまいですか」
「さあ」
「わからないんですか」
「あまり」
「なぜ飲むんですか」
「習慣だと言った」
アルトは一口もらった。
「……薄いですね」
「そうだ」
「うまいのかよくわからないですね」
「そうだろう」
「師匠はずっとこれを」
「たまにだ」
「たまにわからないものを飲むんですね」
「習慣だ」
二人で黙って座っていた。悪くない時間だった。
◇
その夜、トネリアは茶を飲みながら思った。
姉、とアルトは言った。魔術師の姉。
ソプラノ、とトネリアは思った。あの子が今どこにいるか、知っている。ウィロウと一緒にいる。それも知っている。
アルトは知らない。知らないまま剣を磨いている。その動機が間違っていることも、知らない。
しかし、とトネリアは思った。動機が間違っていても、磨かれた剣は本物だ。それでいいのかどうか、こなたには判断できない。
ウィロウ、お前はこなたに何を頼んでいるのか。
茶が冷めていた。




