第3話 師匠が近すぎる
五日目から、稽古の内容が変わった。
「木剣を置け」
「置きますか」
「置け」
アルトは置いた。トネリアが受け取って、道場の端の定位置に戻した。
「こなたの動きを見ろ」
「見ます」
「次の動きを当てろ」
「当てる、というのは」
「どこに動くか。それだけでいい」
トネリアが庭の真ん中に立った。構えるわけでも、何かをするわけでもない。ただ立っていた。
アルトは見た。どこに動くか、と言われても、立っているだけだった。右に動くとも左に動くとも、どこにも動かなかった。
「……動いてないですよ」
「見ていろ」
見た。
トネリアがわずかに重心を動かした。瞬間、アルトは右と思った。
トネリアは左に動いた。
「違いました」
「もう一度」
もう一度。また違った。五回やった。五回とも違った。
「全部外れました」
「そうだな」
「コツはありますか」
「ない」
「ないんですか」
「見ていればわかる」
わかるのか、とアルトは思った。思ったが、黙って見た。
◇
午後になった。
五回に一回、当たり始めた。なぜ当たったのか、アルトには説明できなかった。見ていたら、なんとなく、こちらに来る気がした。それだけだった。
「当たりました」
「そうだな」
「なんで当たったんですか」
「見ていたからだろう」
「もっとちゃんとした理由はないですか」
「ない」
トネリアは縁側に戻った。茶を持った。一度冷ましてから一口飲んだ。それからアルトを見た。
「才があると言った」
「昨日も言われました」
「今日もそう思った」
「五回に一回しか当たってないですよ」
「最初は一回も当たらなかった」
それはそうだった。アルトは黙った。
◇
稽古が終わった頃、縁側に猫が来た。
どこから来たのかわからなかった。黄色い目をした、毛並みの悪い野良だった。縁側の端に座って、庭を見ていた。
トネリアが手を伸ばした。
猫が寄ってきた。
トネリアが撫でた。無言で、ゆっくりと撫でた。顔がさっきまでと少し違った。稽古のときでも、客が来たときでも、夕飯のときでもない顔だった。
アルトは何も言えなかった。
「師匠、猫飼ってるんですか」
「飼っていない」
「でも来ます」
「来る」
「なぜですか」
「さあ」
猫は少し撫でられてから、また庭を見た。それからどこかへ行った。
トネリアはそれを最後まで見ていた。
うまいですね、今日も、とアルトは言おうとして、やめた。何か別のことを言いたかったが、言葉が出なかった。
◇
六日目。
「構えろ」
「木剣を持ってきますか」
「構えるだけでいい。木剣はいい」
アルトは構えた。
トネリアが近づいてきた。後ろに回った。肩の位置を、両手で直した。
近かった。
アルトの集中が、瞬時に壊滅した。
「力が入っている」
「入っていません」
「肩が上がっている」
「上がって」
「上がっている」
上がっていた。
トネリアの手が肩から離れた。一歩引いた。アルトは密かに息を吐いた。
「重心を落とせ」
「落とします」
また近づいてきた。今度は横から、腰の位置を確認した。
近かった。前より近かった。
アルトの予測精度が、午前の段階で既に壊滅していた。
「見ろ」
「見てます」
「見ていない」
「見てます」
「どこを見ている」
「……前を」
「こなたを見ろ」
こなたを、という言葉が頭に残った。残ったのがまずかった。アルトは無理やり意識を戻した。
◇
昼になった。
「午前中、五回に一回も当たらなかった」
「そうだな」
「昨日は五回に一回当たってたのに」
「そうだな」
「なぜですか」
「さあ」
「さあって」
「心当たりはあるか」
あった。あったが、言えなかった。
「……ないです」
「そうか」
トネリアは茶を持った。冷ましてから飲んだ。飲みながら、少しだけアルトを見た。
「明日はもう少し当たるだろう」
「なぜですか」
「慣れるからだ」
「何に慣れるんですか」
「さあ」
「さあって」
トネリアは縁側から庭を見た。その横顔は、何も言っていなかった。
◇
七日目。
言われた通り、少し当たり始めた。六回に一回から、四回に一回になった。なぜ当たるのかは、まだわからなかった。
午後、トネリアがまた後ろに回った。今日は首の角度を直した。
近かった。しかし昨日よりは、アルトの予測精度が落ちなかった。
「昨日より集中が続いている」
「……そうですか」
「何かあったか」
「ないです」
「そうか」
トネリアが一歩引いた。引いた距離が、昨日と同じだった。アルトはその距離を、目ではなく背中で測った気がした。
あ、とアルトは思った。
「師匠」
「なんだ」
「もしかして、これが稽古ですか」
「何がだ」
「近いのが」
トネリアは答えなかった。
答えなかったが、少しだけ間があった。その間が、答えだった気がした。
◇
夕飯のとき、アルトは聞いた。
「師匠はずっとこういう稽古をするんですか」
「こういうとは」
「変な稽古、というか」
「変か」
「素振りとかしないんですか」
「する」
「いつですか」
「必要なときに」
「今は必要ないんですか」
「今は別のことが必要だ」
「何がですか」
トネリアは箸を止めた。少しの間、人差し指で口元を触った。
「見ること、だ」
それだけ言って、また食い始めた。
アルトは芋と茸、山菜を食べながら考えた。見ること、というのが稽古になるのか。なるらしかった。わかるような、わからないような話だった。
「うまいですね、今日も」
「そうか」
「毎日うまいですね」
「そうか」
「師匠、料理うまいですね」
「剣聖だからな」
「関係ありますか」
「ない」
それで夕飯が終わった。
◇
その夜、トネリアは庭に出た。
風がなかった。月が出ていた。
午後の稽古で、とトネリアは思った。あの子が後ろからの距離を測った。目ではなく、背中で。
師も、同じことをした。最初の稽古で。まだこなたが若かった頃。後ろに人の気配がして、距離を目ではなく背中で測った。師はそれを見ていた。何も言わなかった。翌日、稽古の内容が変わった。
アルト、とトネリアは思った。お前はこなたより早い。それが嬉しいような、少し困るような。
月を見た。月は何も言わなかった。




