第2話 師匠が別人になる
四日目の昼過ぎ、師匠の声が別人になった。
◇
門を叩く音がしたのは、稽古の途中だった。
「奥にいろ」
「稽古は」
「続けていろ」
トネリアはそれだけ言って、表に出た。
アルトは続けた。一人で構えて、重心を探した。昨日より少しだけ、立っている感覚が違った。違うのかどうか、まだわからなかった。
声が聞こえた。
トネリアの声と、知らない男の声だった。二人分、あるいは三人分。アルトは構えたまま、耳を向けた。
「——剣術教授の制度について、改めて上からの確認がございまして」
男の声だった。かたい声だった。
「わたくしは既に引退の身。そのような件に関わる立場ではございません」
アルトは木剣を下ろした。
声が違った。
トネリアの声なのはわかった。わかったが、別人だった。さっきまで稽古をつけていた人間の声ではなかった。静かで、薄くて、どこか遠かった。
「しかしながら、先生のお立場は——」
「すでに引退しておりますゆえ」
会話が続いた。アルトには内容の半分も分からなかった。剣術の制度がどうとか、領国への通達がどうとか。そういう話だった。
アルトはぼんやりと聞きながら、姉のことを考えた。
ソプラノも、魔術の制度とかいう話をするのだろうか。あの姉が。母を——ウィロウを追い出した、あの姉が。
そういう顔が思い浮かばなかった。
思い浮かべようとして、やめた。構えを直した。
◇
客が帰った。
トネリアが戻ってきた。装束の袖を直しながら、縁側に上がった。
「稽古を続けるか」
いつもの声だった。
「……師匠」
「なんだ」
「さっきの人、誰ですか」
「役人だ」
「何の用ですか」
「用があったんだろう」
答えになっていなかった。アルトは木剣を構えた。
「師匠、さっきと声が違いました」
「そうか」
「別人でした」
「そうか」
「……本当に同じ人ですか」
「続けろ」
続けた。
稽古が終わった。トネリアが木剣を受け取って、道場の端の決まった場所に戻した。少し位置がずれていたのか、一度直してから棚に置いた。毎回そうする、とアルトは気づいた。
◇
夕方、トネリアが縁側で本を声に出して読んでいた。
「——およそ用兵の法、大勢をもって寡兵を破るを上と為し、寡兵にて大軍を破るはこれに次ぐ——」
アルトは縁側の端に座って聞いていた。
「何ですか、それ」
「兵法書だ」
「剣と関係ありますか」
「ある」
「どこがですか」
「全部だ」
また読み始めた。アルトには意味が半分もわからなかった。わからないまま、隣で聞いていた。日が傾いて、庭が少しずつ暗くなった。
悪くない時間だった。
◇
夕飯の支度をトネリアがしていた。アルトは縁側に座って、庭を見ていた。
「手伝いますか」
「いい」
「本当に」
「いい」
アルトは庭を見た。夕方の光が庭の端から薄くなっていた。稽古をした場所に、昨日転んだ跡がまだ少し残っていた。
「師匠は、剣術教授の制度とかに関係してたんですか」
台所から間があった。
「昔はな」
「今は」
「引退した」
「さっきもそう言ってました」
「そうだ」
「でも来ましたよ、役人が」
「来た」
「なんで来るんですか」
「用があったんだろう」
また答えになっていなかった。
アルトは膝を抱えた。夕方の庭は静かだった。どこかで鳥が鳴いていた。
「師匠は、魔術師のことどう思いますか」
今度はもう少し長い間があった。
「どういう意味だ」
「剣術より魔術の方が強い、とか。そういう話、最近多いじゃないですか」
「多いな」
「師匠はどう思うんですか」
トネリアが台所から出てきた。盆に皿を二つ、椀を二つ載せていた。縁側に並んで置いた。
「食え」
「答えは」
「食いながら聞け」
食いながら聞いた。
トネリアは椀を持ったまま、飲む前に少し待った。それからしばらく庭を見た。
「剣と魔術、どちらが強いかはこなたには分からん」
「でも師匠は剣でしょう」
「そうだな」
「じゃあ」
「どちらが強いかと、どちらをやるかは、別の話だ」
アルトは椀を持ったまま考えた。わかるような、わからないような話だった。
「師匠が剣をやるのは、強いからですか」
トネリアは一拍置いて、庭の方を見た。
「さあ」
答えない理由が、最近少しだけわかってきた気がした。答えないのと、答えられないのは違う。この人は後者が多い。なぜかはわからなかった。
「うまいですね、これ」
「そうか」
「なんですか、これ」
「芋だ」
「芋ですか」
「芋だ」
それで夕飯が終わった。
◇
夜、アルトは部屋で寝られなかった。
天井を見ていた。昼間の声が頭に残っていた。トネリアの声ではない声。薄くて、遠い声。
あんな声が出るんだ、とアルトは思った。
ソプラノも、ああいう声を出すことがあるだろうか。母と試合をしたとき。ウィロウを魔術で攻撃したとき。あの姉は、どんな声をしていたのか。
見ていなかった。アルトはその場にいなかった。
だから知らない。
天井を見たまま、アルトは目を閉じた。
◇
その夜、トネリアは文机に向かっていた。
筆を持ったまま、止まっていた。
役人が言っていた。制度の見直しを検討している、と。剣術教授の各領国への通達を、段階的に縮小する方向で、と。
そうですか、とわたくしは言った。それだけ言った。
庭の方で、物音がした。アルトの部屋の方ではなかった。風だった。
ウィロウ、とトネリアは思った。あの年の近い子に、まだ何も話していない。話すつもりもない。ただ——時間がない、ということだけは、最近はっきりしてきた。
時間がない。その言葉が、筆を持つ手の上に重くのしかかった。
筆を置いた。




