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第1話 師匠が近い

 母が姉に討たれて、家を追われた。それでこういうことになった。


 トネリアの家には、弟子の部屋がすでに用意されていた。


 八畳ほどの部屋だった。布団が敷いてあって、文机が一つあって、小さな棚があった。使い込まれた感じはなかったが、埃もなかった。誰かが掃除をしていた。


 それがアルトには少し引っかかった。引っかかったが、布団が厚くて飯がうまかったので三日で忘れた。


 ◇


 稽古は朝から始まった。


「構えろ」


 トネリアの声は静かだった。静かなのに、庭の空気が変わった気がした。アルトは木剣を両手で握り、腰を落とす。


 初めてまともに顔を合わせたのは昨日だった。血縁とは聞いていたが、こんな人だとは思っていなかった。女だとも聞いていなかった。異国の薄い絹を重ねたような装束で、袖が長く、動くたびに揺れた。肌が白い。亜麻色の髪が、光の加減でさらに薄く褪せて見える。筋肉質というわけでもないのに、立っているだけで隙がなかった。背はアルトより少し高い。その少しが、なぜか余計に気になった。


 剣聖女けんのせいじょ、という話は聞いていた。引退しているとも。ただ引退した剣聖がどの程度のものなのか、アルトには実感がなかった。街の用心棒に混じって喧嘩を売ってきた連中には、一度も負けたことがない。それがアルトの知っている強さの全部だった。


「両手で持つな」


「え、剣って普通は両手で―—」


「片手だ」


「でも」


「片手」


 有無を言わさぬ二度目だった。アルトは内心、片手で何が変わるのかと思いながら、右手だけで木剣を持った。妙に、しっくりきた。それが少し気に入らなかった。


 トネリアは縁側に座って茶を飲んでいた。飲む前に、一度椀を持ったまま少し待った。冷ましているのかもしれなかった。稽古をつけるというより、品定めをしているような目だった。美人がそういう目をすると、なんというか、困る。アルトは視線をそらした。


「目を逸らすな」


「逸らしてません」


「逸らした」


「……逸らしてません」


「今また逸らした」


 逸らしていた。


 ◇


 午前中いっぱい、アルトは庭に立っていた。


 何かをするわけではない。ただ構えているだけだ。トネリアは縁側から動かない。たまに茶を飲む。たまにアルトを見る。長い袖が縁側の端に垂れていた。


 拍子抜けだった。もっと激しい稽古を想像していた。走らされるとか、素振りを何百回とか。ただ立っているだけなら、いくらでもできる。アルトはその余裕で視線を受け流そうとした。


 うまくいかなかった。重心がぶれた。


「ぶれるな」


「ぶれてません」


「ぶれた」


「ぶれて……」


「ぶれた」


 ぶれた。


 昼になった。トネリアが立ち上がった。装束の裾が、風もないのに少し揺れた。


「飯にする」


「稽古は」


「終わりだ」


「終わり、ですか」


「そうだ」


「……それだけですか」


「腹が減った」


 不満はなかった。なかったが、何かが腑に落ちなかった。これで強くなれるのか。アルトは木剣を下ろした。


「あの、俺、強くなれますか」


 口に出してから、少し後悔した。弱気に聞こえる気がした。


 トネリアが振り返った。しばらくアルトを見た。品定めではない目だった。何か別のものを確認するような、一瞬だけの目だった。薄い色の髪が、顔の横に少し落ちた。


「飯を食え」


「それは答えですか」


「答えだ」


 それだけ言って、家の中に入った。


 ◇


 二日目の昼、アルトは初めて動いた。


「打ち込んでこい」


「打ち込む、というのは」


「こなたを打て」


「打っていいんですか」


「打っていい」


「本当に」


「打て」


 トネリアは素手で庭の真ん中に立っていた。長い袖を帯に挟んで、白い腕が出ていた。アルトは木剣を構えた。素手だった。こちらは木剣を持っている。加減しなければ、と思った。剣聖とはいえ、引退した細い腕だった。怪我をさせてはまずい。


 踏み込んだ。


 気づいたら地面にいた。


 何が起きたか分からなかった。体が浮いた感覚だけあって、次に土の匂いがした。


「起きろ」


 起きた。頭が追いついていなかった。


「もう一度」


 踏み込んだ。また地面にいた。


「もう一度」


 また地面にいた。


「もう」


「一度」


 今度は加減しなかった。結果は同じだった。


 五回目あたりから、アルトは本気で考え始めた。何が起きているのかわからない。わからないということが、じわじわと腹に来た。街でこんな経験はしたことがなかった。


 七回同じことが起きた。八回目にアルトは踏み込む前に止まった。止まってトネリアを見た。感情ではなく、目の前の事実として見た。立ち方を見た。重心の位置を見た。どこで転ばされているのかを考えた。白い肌とか薄い髪とか、そういうことを考えている場合ではなかった。


 トネリアが、微妙に目を細めた。


「来い」


 踏み込んだ。また転んだ。しかし今度は転び方が違った。


 受け身が取れた。


――


「才があるな」


 縁側に並んで座っていた。夕方だった。距離が近かった。装束の袖がアルトの腕に少し触れた。アルトは気づかないふりをした。


「七回転びましたが」


「八回目に止まった」


「転びました」


「転ぶ前に見たな」


 トネリアは茶を持った。飲む前に少し待った。一度冷ます習慣らしかった。


「それでいい」


 声が少し違った。さっきまでと違う声だった。アルトは横を向いた。向いてよかったのかわからなかったが、向いた。


 トネリアは庭を見ていた。横顔が、夕方の光の中で少し違う色をしていた。剣聖というのが何なのかアルトにはよくわからない。ただ今この人は、庭を見ているのか、庭の向こうの何かを見ているのか、それもわからなかった。


 きれいだと思った。


 思ったことに気づいて、アルトは茶を飲んだ。熱かった。むせた。


「なにをしている」


「なんでもないです」


「熱かったか」


「熱くないです」


「そうか」


 トネリアは少しの間アルトを見た。それから、ふっと息を吐いた。笑ったのかどうかわからなかった。


「しょうがないな」


 声がまた変わっていた。さっきとも最初とも違う声だった。アルトには、その違いが何なのかわからなかった。


 季節がらか、陽はすぐに落ちた。

 トネリアは立ち上がった。


「そろそろ夕餉にしよう」


 ◇


 三日目の朝、アルトは早く起きた。


 庭に出ようとして、道場の前で止まった。


 戸が少し開いていた。中にトネリアがいた。座っていた。目を閉じていた。


 声をかけようとして、やめた。かけていい雰囲気ではなかった。かけてはいけない雰囲気でもなかった。ただ、何かをしている最中だった。


 アルトは戸口で待った。


 どのくらい経ったかわからなかった。朝の空気が冷たかった。秋の終わりの匂いがした。


「入っていいぞ」


 目を開けないまま言った。


「いつから気づいてましたか」


「最初から」


「なぜ言わなかったんですか」


「待てるか確かめていた」


「待てましたよ」


「そうだな」


 それで稽古が始まった。


 庭で一人で構えてみた。昨日トネリアに転ばされた体の感覚を思い出しながら、重心の位置を探った。昨日まで自分が何を見ていたのか、よくわからなくなっていた。街で強いと思っていた。負けたことがないと思っていた。しかしあれは何と戦っていたのか。


 しばらくして、気配がした。


 振り返るとトネリアが縁側に立っていた。いつからいたかわからない。茶も持っていない。朝の薄い光の中で、装束の白が少し滲んでいた。亜麻色の髪が結わえられていなくて、肩の辺りで落ちていた。いつもと違う気がして、アルトは一瞬固まった。


「おはようございます」


「おはよう」


「続けろ」


 アルトは続けた。


 朝の光の中で、トネリアは何も言わなかった。ただアルトの構えを見ていた。


 その目が何を見ているか、アルトにはわからなかった。


 ◇


 夕飯のとき、アルトは聞いた。


「なんで俺を引き取ったんですか」


 トネリアは箸を止めた。


「血縁だ」


「でも会ったこともなかったじゃないですか」


「そうだな」


「なんで今更」


 トネリアはアルトを見た。灯りの下だと、亜麻色の髪がさらに薄く見えた。人差し指で、少しの間、口元を触った。


「こなたが決めた」


「それは理由じゃないですよ」


「理由になる」


「なりませんよ」


「なる」


 なるのか、とアルトは思った。思ったが、飯がうまかったのでそれ以上聞かなかった。


 ◇


 その夜、トネリアは庭に出た。


 月が出ていた。アルトの部屋の灯りはもう消えていた。


 あの構えだ、とトネリアは思った。あの重心の取り方。片手で剣を持ったときの、自然な体の傾き。


 遅かった。


 間に合うかどうかわからない。


 それでも、とトネリアは月を見た。


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