第34話 俺は姉と話をした
その日、師匠が用事で街に出た。昼過ぎにソプラノが来た。
◇
トネリアが「午後まで戻らない」と言って出た。
昼になった。門を叩く音がした。
アルトが出た。ソプラノだった。
「師匠はいないです」
「そうですか」
ソプラノが門の外に立ったまま、少しの間があった。帰るかと思った。帰らなかった。
「入りますか」
「……少しだけ」
◇
縁側に二人で座った。
ソプラノが端に座った。アルトは反対の端に座った。縁側の幅いっぱいに距離があった。
どちらも庭を見た。庭を見るしかなかった。
虫の音がした。夏の昼の虫だった。
アルトが口を開こうとして、止まった。何を言えばいいかわからなかった。
ソプラノも何も言わなかった。
沈黙が長かった。長くなるほど、最初の一言が遠くなった。
「稽古します」
アルトが言った。言った後で、それしか言えなかったと思った。
「見ていていいですか」
「……どうぞ」
庭に降りた。鈴のついた真剣を持った。素振りを始めた。
ソプラノが縁側に座って見ていた。見られていると思うと、鈴が鳴りそうだった。実際には鳴らなかった。しかし鳴りそうだった。
一度だけ振り返った。ソプラノと目が合った。
どちらも何も言わなかった。アルトが前を向いた。
三十回振った。鈴は鳴らなかった。
「鈴が鳴りませんでした、今の」
「……そうですか」
「どこで覚えたんですか」
「師匠に習いました」
「どのくらいになりますか」
「去年の冬からです」
「そんなに短い間で」
「長いですか、短いですか」
「……わかりません」
◇
縁側に戻った。ソプラノが少し詰めた。先ほどより距離が近かった。
縁側に笛が置いてあった。
「それは」
「師匠の笛です」
「トネリア様が笛を吹くんですか」
「吹きます。下手ですが」
「……下手でも吹くんですね」
「習慣になったみたいです」
「前からですか」
「春の祭りで俺が渡したんです」
「そうですか」ソプラノが笛を見た。「私にも吹かせてください」
「師匠のものです」
姉は「借りていいですか」と聞いた。
アルトは少し考えた。
「師匠に聞いてください」
「帰ってから聞きます」
少しの間があった。今日の気まずさが、少しだけ薄くなった気がした。
その後もソプラノは距離を離さなかった。気づいたが、言わなかった。
◇
夕方になる前に、アルトは聞いた。
「姉さんは術を使うんですか」
「使います」
「どんな術ですか」
「……凝固の術です」
「固めるんですか」
「そうです」
「遠くから」
「そうです。魔法陣を空間に投影して使います」
「魔法陣を空間に?」
「才能があれば、無手でできます。空中に一瞬だけ、陣が浮かびます」
「部位を選べますか」
「選べます」
アルトが少しの間黙った。
「母の腕は」
「……はい」
「凝固させたんですね」
「はい」
また間があった。
アルトは庭を見た。庭の草が、夏の陽を受けていた。
それ以上聞かなかった。今日はそこまでだった。
◇
トネリアが帰ってきた。
「師匠、笛を借りていいですか」
「さあ」
「さあって、いいですか、よくないですか」
「好きにしろ」
「そうですか」
その夜、アルトはもう一度吹いた。また外れた。
◇
その夜、トネリアは縁側に出た。
二人だけになった午後、何か話したようだった。
アルトの顔が、少し違った。まだ処理できていない、という顔だった。
それでいい。今日のことが、明日の稽古に出る。
笛を持った。吹いた。音が外れた。アルトも吹いたと聞いた。どちらも外れた。
そういうことがある。




