第31話 春の終わりに姉が来た
春の終わりに、ソプラノがまた来た。
昼過ぎに、門を叩く音がした。
あの声だった。
トネリアが表に出た。アルトは庭にいた。
声が届いた。よく響いた。春の空気の中でも、はっきり届いた。
「トネリア様、今日は——」
「待て」
トネリアが一度庭を見た。
アルトと目が合った。
少しの間があった。
「アルト、来い」
◇
アルトは表に出た。
ソプラノが立っていた。
鴉の濡れ羽のような黒い髪だった。黒曜石のような瞳が、まっすぐこちらを見ていた。白い衣装を着ていた。術師の格を示す正装だとアルトにはわからなかったが、白が春の光の中で目立った。
アルトは止まった。
想像と違った。
声だけ聞いていた相手が、こんな見た目だとは思っていなかった。幼い頃に何度か会ったはずだった。しかしその記憶と目の前の人間が、うまく重ならなかった。
ソプラノが一歩踏み出そうとした。止まった。
アルトも動けなかった。
向き合ったまま、少しの間があった。思ったより長い間だった。
「……ソプラノ」
「アルト」
それだけだった。名前だけだった。それ以外に何を言えばいいかわからなかった。
ソプラノが目を少し逸らした。それからまた戻した。黒曜石の瞳がアルトを見た。
「会いに来るのに時間がかかりましたね」
アルトが言った。
「そちらこそ」
ソプラノが言った。
また間があった。
「俺、剣をやってます」
「知っています」
「見てほしいです。いつか」
ソプラノがアルトを見た。長い間、見た。
黒い髪が、春の風に少し揺れた。
「ええ、見ましょう」
それだけだった。
◇
トネリアは少し離れて立っていた。
二人が話している。
向き合ったまま動かなかった、あの長い間。
あの長さは、こなたには作れないものだ。血がある間にしか生まれない長さだ。
師も、こなたとの最後の日に、こんな顔をしていたかもしれない。
◇
夕飯。今日はソプラノも食べた。
三人で芋を食べた。木の芽のゆでたのも出た。
「うまいですか」
アルトがソプラノに聞いた。
「うまい」
「師匠の料理です」
「そうか」とトネリアが言った。
「毎日食べるんですか、これ」
「毎日です」
「……毎日」
「芋は良いものだ」とトネリアが言った。
「そうですね」とソプラノが言った。
三人で、少し黙って食べた。
「また来てもいいですか」
ソプラノが言った。
「いい」とトネリアが答えた。
アルトは何も言わなかった。芋を食べた。それが答えだった。
◇
その夜、アルトは道場で素振りをした。
新しい剣で、長く振った。五十回振った。
鈴が途中で二回鳴った。一回目は踏み込みのとき。二回目は、力が入りすぎたとき。
二回目が鳴ったとき、自分でわかった。どこで鳴ったか、わかった。
直して、また振った。鳴らなかった。
今日、姉に会った。黒い髪だった。「剣を見ます」と言った。
怒りは消えていなかった。しかし怒りの向かう先が、今日から変わった。
倒したい相手ではなく、見てほしい相手のために、剣を磨く。
剣を鞘に戻した。定位置からずれないように置いた。
◇
その夜、トネリアは縁側に出た。
月が出ていた。
三人で芋を食べた。
アルトが食べた。ソプラノが「うまい」と言った。アルトが黙って食べ続けた。こなたが「芋は良いものだ」と言った。
その重さが、まだ縁側に残っていた。
三人で食べたことの重さが。
怒りも、真実も、まだ途中だ。しかし今夜、三人で食べた。
それが始まりだった。
笛を持った。一度吹いた。たまたま、澄んだ音が響いた。
月が出ていた。それだけで十分だった。




