第29話 師匠と俺は手紙を書いた
師匠が手紙を書いているのを、アルトは見た。
◇
昼の稽古の後。
文机でトネリアが手紙を書いていた。アルトが気づいた。
「誰にですか」
「ウィロウだ」
アルトは少しの間、その背中を見た。
「……俺も書いていいですか」
トネリアが止まった。振り返らなかった。
「もちろん」
◇
文机を借りた。
「母上へ」と書いた。止まった。
何を書けばいいかわからなかった。
「師匠」
「なんだ」
「なぜ言わなかったのか、と書いていいですか」
「いい」
「怒っている、と書いていいですか」
「いい」
「……会いたい、と書いていいですか」
「それは聞かなくていい。書け」
書いた。
三行書いた。消した。また三行書いた。消さなかった。
折って、封をした。
◇
夕飯のとき。
「師匠、母は今、元気ですか」
「片腕を失っている。ソプラノが世話をしている」
「片腕を」
「試合で。ウィロウが申し込んだ試合だ」
アルトはしばらく黙った。
「師匠、姉は……母に、優しくしていますか」
長い間があった。トネリアが一拍置いて、窓の外を見た。
「こなたには、そう見えた」
アルトは芋を食べた。木の芽のゆでたのも食べた。
うまかった。今日は芋より木の芽の方がうまかった。
「師匠」
「なんだ」
「姉に手紙を書いていいですか」
「いい」
「書き方がわかりません」
「さあ」
「師匠に聞いているんですが」
「さあ」
さあ、で終わった。
◇
その夜、白紙の前に座った。
「ソプラノへ」と書いた。止まった。
しばらく見た。筆を持ったまま、見た。
もう一行書こうとした。書けなかった。
しばらくして、「ソプラノへ」と書いた部分だけ、消した。
白紙に戻った。
折って、手紙の横に置いた。
消したのに、何を折っているのか、自分でもよくわからなかった。
◇
その夜、トネリアは二通の手紙を見た。
一通はウィロウへ。もう一通は——まだ誰にも宛てていなかった。
アルトが「書き方がわからない」と言った。
こなたにも、わからない。師に手紙を書いたことはなかった。書けなかった。
書けなかったまま、師はいなくなった。
アルトは書ける。まだ書けていなくても、いつか書ける。
それだけで十分だった。




