第25話 師匠は笛を吹いた
その日の朝、アルトは師匠より早く庭にいた。
◇
夜明け前から起きていた。眠れたが、目が覚めた。
庭に出た。構えた。
しばらくして、気配がした。振り返らなかった。背中で測った。縁側に、トネリアがいた。
「早いな」
「今日からそうします」
「そうか」
稽古が始まった。
◇
今日の稽古は、初めから違った。
体の感覚が、昨日と少し変わっていた。重心の位置が、自分でわかった。踏み込みのとき、力がどこに行っているか、少しわかった。
打ち込んできた。一合、二合、三合。
三合目を、捌いた。
捌いた、とアルトが思った瞬間、四手目が来た。捌けなかった。木剣が飛んだ。
「拾ってこい」
「拾います」
「今の三合目は、どう捌いた」
「……体が勝手に動きました」
「勝手に、か」
「狙っていませんでした」
「そうか」
もう一度。一合、二合、三合、四合。
四合目を、捌いた。今度は狙った。
五手目が来た。捌けなかった。
「狙ったな」
「狙いました」
「どちらが良かった」
「……三合目の方でした」
「なぜだ」
「考えていませんでした」
「それだ」
◇
昼になった。
打ち込みを二回続けて捌いた場面があった。二回目を捌いたとき、トネリアが止まった。
「今のは、どこを見た」
「全部です。重心だけじゃなくて」
「全部、とは」
「体が先に動いていました。目で見る前に」
トネリアは少しの間、アルトを見た。何も言わなかった。
何も言わないことが、今日は何かだった。
◇
夕飯の後、縁側に並んで座った。
月が出ていた。春の月だった。冬より柔らかい光だった。
アルトはしばらく黙っていた。
「師匠」
「なんだ」
「俺、見えてきた気がします」
トネリアが少しの間、庭を見た。
「そうか」
「まだ確かめたいことがあります」
「何をだ」
「師匠から聞きたいことがあります。まだ準備が足りないので、もう少しだけ待ってください」
トネリアが、アルトを見た。
その目が何だったか、アルトにはわからなかった。
「……わかった」
「待ってもらえますか」
「待つ」
月が庭を照らしていた。新しく植えた花が、月の光の中で少し揺れていた。
◇
アルトが部屋に戻ってしばらくして、縁側から音がした。
細い音だった。
笛だった。
音程が外れていた。拍子も定まっていなかった。しかし音は続いた。短く、途切れながら、続いた。
アルトは部屋の中で、天井を見たまま、耳を向けた。
下手だった。しかし悪くなかった。
◇
その夜、トネリアは縁側に出た。
笛を持っていた。吹いてみた。音が出た。外れた。また吹いた。また外れた。
こなたには音楽はわからない。しかし、吹くと何かが動いた。剣とは違う何かが。
アルトが「もう少しだ」と言った。こなたが言い続けてきた言葉を、あの子が使った。
聞く準備ができたとき、こなたは答えなければならない。答えられるか。答えるべきか。
もう、そこしかない。
笛を一度だけ吹いた。外れた。しまったと思った。




