第23話 師匠と春の祭りに来た
「祭りがある」と師匠が言った。それだけで、今日はいつもと違う日だった。
◇
朝。
「今日は稽古を休む」
「なぜですか」
「祭りだからだ」
「祭りがあるんですか」
「街で毎年ある。行くか」
行きます、とアルトは即座に言った。
◇
山を下った。街の広場に市が立っていた。普段の市より人が多かった。屋台が出ていた。色のついた布が風に揺れていた。春の匂いがした。
トネリアがいつもの装束で歩いていた。袖が長かった。亜麻色の髪を結わえていた。人混みの中で、少し浮いていた。
「師匠、目立ちますよ」
「そうか」
「なんで普通の格好じゃないんですか」
「これが普通だ」
「……そうですか」
屋台の前に来た。焼いた肉が串に刺さっていた。いい匂いがした。
「食べますか」
「食べる」
二本買った。トネリアが金を払った。アルトが一本受け取った。
食べた。
「うまいですね」
「そうだな」
「芋よりうまいですよ」
「そうかもしれない」
「師匠はどうですか」
「うまい」
二人で歩きながら食べた。
◇
広場の中心に、舞台が組んであった。楽師が音楽を演奏していた。踊っている人たちがいた。
アルトは立ち止まって見た。
「師匠、これ何の祭りですか」
「春を迎える祭りだ」
「毎年ですか」
「そうだ」
「師匠は毎年来るんですか」
「たまに来る」
「一人でですか」
「そうだ」
「……俺を連れてきたのはなぜですか」
「さあ」
さあ、で終わった。
音楽が続いていた。踊っている人たちの足音が、地面に響いていた。
アルトはそれを見ながら、少し前のことを考えた。通達のこと。稽古は続く、とトネリアが言ったこと。それだけ信じておけばいい気がした。今日は。
「師匠」
「なんだ」
「楽しいですね」
トネリアが少しの間、舞台を見た。
「そうだな」
今日の「そうだな」は、いつもより少し違った。重みが少なかった。
◇
少し歩いたところに、雑貨を並べた屋台があった。
竹細工、布の小物、干し果物。その端に、横笛が数本並んでいた。
アルトは止まった。
「師匠、笛ですよ」
「そうだな」
「師匠、楽器とかやりますか」
「さあ」
「さあって、やるんですか、やらないんですか」
「やらない」
「……買いますか」
トネリアが立ち止まった。笛を一本手に取った。軽く持った。重さを確かめた。それから戻した。
「いらない」
「そうですか」
歩き出した。アルトは少しの間、屋台を見ていた。
引き返して、笛を一本買った。安かった。
走ってトネリアに追いついた。
「師匠」
「なんだ」
「あったから買いました」
差し出した。
トネリアが振り返った。アルトを見た。笛を見た。
「……いらないと言った」
「あったから買いました」
また少しの間があった。
「さあ」
受け取った。
「師匠、それは『さあ』じゃないですよね」
「さあだな」
歩き続けた。笛を袖の中に入れた。
「吹けますか」
「さあ」
「吹いてみてください」
「今はいい」
「今夜でもいいです」
「うん」
◇
帰り道、街の外れで、男に声をかけられた。
「薄刃の先生ですか」
トネリアが止まった。振り返った。
老いた男だった。腰が曲がっていた。
「昔、先生に稽古をつけていただいたものです。覚えていますか」
「……覚えている」
「元気そうで良かった。今は弟子を取っておられるんですか」
「そうだ」
男がアルトを見た。
「よく似ておられますな」
「何がですか」
「先生のお師匠さまに」
またその言葉だった。
男は深く頭を下げて、去った。
アルトはトネリアを見た。トネリアはまた歩き始めていた。
「師匠」
「なんだ」
「薄刃、って呼ばれましたよ」
「そうだな」
「師匠の異名ですよね」
「昔の呼ばれ方だ」
「あれはどういう技なんですか」
「見せたとおりだ。いつかわかる」
「今はわかりませんか」
「今はまだだ」
山道を登った。春の空気が柔らかかった。
◇
夕飯は少し遅くなった。
買ってきた焼き菓子が出た。
「これは」
「売っていた」
「師匠が買ったんですか」
「そうだ」
「なぜですか」
「あったから買った」
「チーズと同じですね」
「そうかもしれない」
甘かった。うまかった。
「師匠、今日楽しかったですか」
トネリアは茶を持った。一度冷ました。飲んだ。
「悪くなかった」
「それは楽しかった、ということですか」
「そうかもしれない」
それで夕飯が終わった。
◇
その夜、買ってきた花を庭に植えた。
月が出ていた。二人で土を掘った。
「師匠、これ、咲きますか」
「咲くかもしれない」
「咲いたらきれいですね」
「そうだな」
花を植えた。土を戻した。
悪くない夜だった。
◇
その夜、トネリアは庭を見た。
月が出ていた。新しく植えた花が揺れていた。
今日、祭りに行った。アルトが笑った。こなたも悪くなかった。
袖の中に、笛があった。手に取ってみた。冷たかった。軽かった。
アルトが「あったから買いました」と言った。こなたが言ったのと同じ言葉だった。
そして何かが固まった。言葉にならない。しかし固まった。
制度の通達がそろそろ来る。待っていても変わらない。こなたが動かなければならない。
稽古を変える。受ける側から攻める側へ。時間は変わった。
それだけは、今夜決まった。
笛を縁側に置いた。




