第21話 春が来た
雪が解けた日、師匠が道場を掃除していた。
◇
朝が来た。
庭に出たら、雪がなかった。昨日まであった雪が、一晩でほとんど消えていた。地面が黒く湿っていた。紅葉の木に、小さな芽が出始めていた。
道場の戸が開いていた。中からほうきの音がした。
アルトは覗いた。
トネリアがほうきを持っていた。道場の隅から丁寧に掃いていた。普段の稽古前の掃除ではなかった。もっと念入りだった。
「師匠、何かありますか」
「春だからだ」
「春に掃除するんですか」
「そうだ」
「毎年ですか」
「そうだ」
答えながら、手は止まらなかった。アルトはしばらく見ていた。
「手伝いますか」
「いい」
「本当に」
「いい」
断られた。縁側に座って待った。
◇
稽古は通常通りだった。
真剣を持ったトネリアを見る訓練。今日は十回中八回当たった。
「八回当たりました」
「そうだな」
「先週より二回増えました」
「そうだな」
「良いですか」
「良い」
「かなり良いですか」
「良い」
同じ答えだった。しかし今日は「良い」の質が少し違った気がした。重みが違った。気のせいかもしれなかった。
夕飯のとき、食卓に見慣れないものが出た。
「師匠、これは」
「木の芽だ。ゆでた」
「食べられるんですか」
「食べられる」
一口食べた。苦かった。苦いが、悪くなかった。春の匂いがした。
「うまいですか」
「……うまい気がします」
「そうか」
「師匠は好きですか」
「嫌いではない」
「毎年食べるんですか」
「この時期だけだ」
芋も出た。芋は変わらずうまかった。木の芽のゆでたのは、少し慣れると芋よりうまかった。
「師匠、春って何か変わりますか」
トネリアは一拍置いた。窓の外を見た。
「変わるな」
「何がですか」
「さあ」
今日の「さあ」は、何も言わない「さあ」ではなかった。答えを持っている「さあ」だった。
庭の芽が、夕方の光の中で少し光っていた。鉢植えの小さな白い花が、また咲いていた。
「師匠、あの花、また咲きましたね」
「そうだな」
「毎年咲くんですか」
「そうだ」
「名前、まだわかりませんか」
「忘れた」
「師匠が植えたんですよね」
「そうだ」
「名前を忘れた花が毎年咲くんですね」
「そうだな」
それで夕飯が終わった。
◇
その夜、トネリアは道場を見た。
掃除した道場は、いつもより広く見えた。
制度の通達がそろそろ来る。来たとき、こなたはどうするか。
アルトはまだ知らない。しかしもう少しだ。
道場を掃除したのは、誰かを迎える準備ではない。
送り出す準備だった、とも言えるかもしれない。まだわからない。
ただ、春が来た。何かが動き始めている。




