第20話 師匠と、月を見る
師匠がまた月を見ていた。
◇
夕飯が終わって、アルトは道場で素振りをしていた。
新しい剣で、三日目の素振りだった。
最初の一日目は重さに慣れなかった。二日目は少し馴染んだ。今日の三十回目に、鈴が一度だけ鳴った。
止まった。
自分がどこでずれたか、わかった。踏み込みのとき、右肩が上がっていた。
直して、もう一度振った。
鳴らなかった。
もう三十回振った。
道場を出た。
庭にトネリアがいた。月を見ていた。
「また月ですか」
「そうだな」
「俺も眠れませんでした」
「そうか」
並んで月を見た。第一章のときより、月が高い位置にあった。冬の月だった。
「師匠」
「なんだ」
「さっき鈴が鳴りました」
「そうか」
「右肩が上がっていました」
「そうだな」
「直したら鳴らなくなりました」
「そうか」
「師匠の鈴は、稽古中に一度も鳴らないですよね」
「そうだな」
「一度も鳴らないのに、なぜつけてるんですか」
トネリアは月を見たまま、少し止まった。
「鳴らないことを確かめるためだ」
「毎回確かめるんですか」
「そうだ。今日もそうだった、と思う」
「今日もずれていない、ということですか」
「そうだ」
アルトは剣を持ったまま月を見た。
「師匠」
「なんだ」
「少し前に来た人、誰でしたか」
今日の間は、今までより長かった。
「……いつか会う」
「お前が決める、と言いましたよね」
「言った」
「俺が決めます。会いたいです。誰なのかまだわかりませんが、あの声の人に会いたい気がします」
トネリアが静止した。月の光の中で、亜麻色の髪が少し揺れた。
「アルト」
「はい」
「もう少しだ」
「何がですか」
「見えるまで、もう少しだ。お前が思っているより、ずっと近い」
「何が見えるんですか」
「見えたときにわかる。ただ——驚かなくていい。驚いた後で考えれば、お前にはわかる」
アルトは月を見た。
「師匠は、俺に見えてほしいですか」
「見えてほしい」
「なぜですか」
「見えたとき、お前がどうするかを、見たい」
「俺がどうするかを」
「そうだ」
アルトは手の中の剣を少し強く握った。
鳴らなかった。
「眠れそうです」
「そうか」
「師匠は」
「もう少しいる」
「そうですか」
「おやすみ」
「……おやすみなさい」
アルトは部屋に戻った。
◇
トネリアは庭に残った。
月が、第一章のときより高い位置にあった。
もう少しだ、と言った。驚かなくていい、とも言った。
言いすぎたかもしれない。しかし今日は言わなければならない気がした。春が来る。制度の通達も来る。こなたの立場も変わるかもしれない。
それまでにアルトに見えてほしい。見えた後でここを離れることになっても、見えていれば続けられる。
ソプラノはこなたに会いたがっている。アルトのことが心配でたまらないと、ウィロウの手紙に書いてあった。
アルトはまだ、ソプラノが母の傍にいることを知らない。
ただ——今夜、剣を握って鈴を鳴らさなかった。自分でずれを直して、鳴らさなかった。
それができた。
もう少しだ。本当に、もう少しだ。
月を見た。月は何も言わなかった。
剣を、とトネリアは思った。剣を教えることしか、こなたにはできない。しかし見える目を作ることが、剣だけを作ることではないとわかってきた。
それで足りるかどうか。
足りる、と今夜は思う。
それでも。




