第18話 師匠が熱を出した
師匠が、朝の稽古に来なかった。
◇
朝になった。庭に出た。トネリアがいなかった。
おかしかった。今まで一度もなかった。アルトが起きるより先に庭にいるのが普通だった。
縁側に上がった。廊下を歩いた。
師匠の部屋の前で止まった。声をかけた。
「師匠」
間があった。
「……稽古は、休みだ」
声が、いつもと違った。薄かった。
「入っていいですか」
「いい」
戸を開けた。
トネリアが布団に横になっていた。
初めて見る姿だった。亜麻色の髪が結わえられていなくて、布団の横に広がっていた。顔色が、いつもより薄かった。
「熱ですか」
「少し」
「少し、ですか」
「少し高い」
「いつからですか」
「昨夜から」
「なぜ昨夜に言わなかったんですか」
「稽古の邪魔になる」
「邪魔になっても言ってください」
「さあ」
さあ、が出た。熱があっても「さあ」だった。
◇
アルトは台所に行った。
水を汲んだ。布を濡らした。師匠の部屋に戻った。額に当てた。
トネリアが少し目を細めた。
「うまくやるな」
「薬草辞書を読んでましたから」
「発熱のところか」
「はい」
「読んでいたのか」
「隣で聞いてましたから、ほとんど」
「そうか」
しばらく黙っていた。外で雪がまた降り始めた音がした。
「師匠、熱が出たのは初めてですか」
「さあ」
「滅多にないですか」
「……あまりない」
「なぜ今なんですか」
「さあ」
アルトは布を替えながら考えた。
冬に入ってから、来客が増えていた。制度の話をしに来る役人。使者。ソプラノのこと。
剣聖でも、疲れることがある。
そういうことなのかもしれなかった。あるいは、剣以外のことで消耗したということなのかもしれなかった。
「師匠、飯はどうしますか」
「いらない」
「食べた方がいいですよ」
「さあ」
「さあじゃなくて食べてください」
「……そうかもしれない」
芋を煮た。柔らかく煮た。ここへ来たときより手が慣れていた。自分ではわからなかった。
◇
夕方、少し熱が下がった。
トネリアが半身を起こした。
「うまいか」
「まだ食べてないじゃないですか」
「これからだ」
「うまいかはわかりません。柔らかくしました」
一口食べた。
「うまい」
「本当に」
「本当だ」
「師匠が作るよりうまいですか」
「……今日は、うまい」
アルトは少し黙った。今日は、という言い方が何かを含んでいた気がしたが、聞かなかった。
◇
夜になって、トネリアはまた横になった。
アルトが戸を閉める前に、言った。
「すまなかった」
「何がですか」
「稽古を休んだ」
「そういうことじゃないですよ」
「そうか」
「熱のときに謝らなくていいです」
「そうか」
「おやすみなさい」
「……おやすみ」
戸を閉めた。
◇
その夜、トネリアは天井を見ていた。
アルトが世話をした。水を替えた。芋を煮た。言わなくても動いた。
剣を渡すべきか、とトネリアはずっと考えていた。
師はこなたに剣を渡さなかった。渡すべきだという話もなかった。こなたは自分で選んだ。選ぶことが稽古の続きだったと、今はわかっている。
アルトに剣を選ばせるべきだ。こなたが渡すべきではない。
ただ——こなたの真剣を、いつかアルトが持つ日を、想像したことがある。一度だけ。
それは渡す、ということではないかもしれない。ただ想像した。一度だけ。
熱が、また少し上がった気がした。




