老婆
いをりが立ち止ったのは、村で最も大きな家の前だった。ゆきとが階段の前で腕を組んで待っていた。風音を認めると、中に向って何やら呼びかけた。出てきた二人の見張りに付いて、風音は一段一段階段を進んだ。風音が通された部屋には、窓が一つもなかったが、意外なほど涼しかった。背筋を冷たい汗が伝う。入口のすだれから漏れた光が、風音の影と、部屋の奥の暗がりを浮き上がらせた。
「そこ、連れ奉る。風音、後で服、取りにきいや」
いをりの声に応えたのは、遠くの波の音だけで、当のいをりもいつの間にかいなくなっていた。
何をされるか分かったものではないが、長老ともなれば、人質にできる。見張りだと思っていた二人の男も、すでに返されたらしい。拳をかたく握ったまま、沈んだ暗がりとにらみ合いが続いた。積み重なった冷気には、波の音さえ遠ざけられる。身震いが始まって、外の者に声をかけようと風音が立ち上がろうとした、その時だった。
「富良樹の上から、なんでまたこんなところに来はった。娘一人で、物見遊山いうわけはないの。それも・・・ええ所のお嬢さんが」
風音の予想は裏切られた。闇の奥から聞こえてきたのは、しゃがれた老婆の声だった。
「紅い眼、そう、不知火の……」
薄闇はつづけた。這い上がる怖気に、全身が凍りつく。
「さて、話を聞かせてもろても、ええかの」
聞かれて初めて、思い出した。姿勢を正し、恭しく頭を下げる。
「不知火風音と申します。この島に流れ着きました。水の天蓋に、ぶつかって……。阿那は、ご存じありませんか。竜です。私の」
浮き上がったばかりの風音は、あまりに息が続かない。
「残念じゃが、そんな知らせは届いておらぬ。水の天蓋に・・・何があった」
「笑われるかもしれませんが、通り抜けようとして、その」
黒く塗りつぶされた静けさを破ったのは、肌に刺さる衣ずれの音だった。入口の前で、風音はもう一度身構える。
「ふむ、どこで聞いた。昴人は、向こう側を知らないはずじゃが」
俄かには信じがたい答えだった。水の天蓋は、世界の果て。流れおちる水の向こうには何もない。それが、彼らの「常識」だった。
「五年前のことです。私は、兄があの壁を越えてゆくのを見ました。」
この老婆ならば、と夢中で話す内に、体が熱くなってくる。
「なんと、潜り抜けた者がいるのか!しかして、兄上は」
「それきり、帰っては来ませんでした。でも、居るんです。あの壁の向こうに」
二つの拳に、汗をぐっと握りしめる。
「そうか、気の毒な事を聞いたの。そうじゃ、何かの助けになるやもしれぬ。一つ昔話をしてやるとするかの」




