昔話
神妙に千波が頷き、風音が手を引っ込める。
「これは母の口伝ですから、信じるに足るかどうかわかりませんが……私たちの昔話には、似たような怪物が出てきます。」
「ええ、空の富良樹にも、似たような文献があったと聞いています。“明真名”と呼ばれていたようですが。」
千波はソーサーを膝の上に乗せ、再び喉をうるおして、ゆっくりと溜息をついた。
「まず間違いなく、母もそう呼んでいました。“明真名”によって祖国が滅びたのだと―」
いつの間にか風は止み、大きな窓から射し込んだ冷たい月明かりが、息をのむ応接室を満たしていた。
「祖国?被害は大きかったようですが、4大王朝が途切れたという話は聞いたことがありませんね。」
風音が俯いて白茶を匙でかき回していたので、顎をさすりながら考え込んでいる激が、一瞬風音を見やったのに気付かなかった。食器の触れる音に、心臓が飛び出しそうになる。
「私たちの祖国は、今四国の納める海と空のどこにもないと教えられました。世界を取り囲む水の天蓋に隔てられたはるか南の五つの富良樹を抱える大国です。」
「方便じゃなかったのか……」
顎をさすりながら、激が唸る。途切れた会話の行方を確かめるべく、顔を伏せたままで除いた目が、おろおろとさまよっていた千波の目と合ってしまう。
「続きを……聞かせてくれ。」
ゆっくり呼吸を整えると、恐る恐る尋ねた風音に向き直り、千波は記憶に新しい昔話を再開した。
「はるか南の、5つの富良樹を抱える大国です。極めて高度な技術と文化を持ち、豊かな暮らしが営まれていたそうですが、ある時“睡輪浮船”が“明真名”を目覚めさせ―」
「え?」
大きな影が絨毯の上を駆けあがってきた。月が再び雲に隠れてしまったらしい。浮き上がった蝋燭の明かりが、穏やかにテーブルを染め上げる。
「はい?」
風音は、乱暴に足を組み直して、一気に白茶を飲み干すと、あっけにとられた千波にもごもごと質問した。
「いや、意外だっただけだ。……連中、人間の言うことを聞きそうには見えないからな。いいから、続けてくれ。」
「私も、“夢見の君”とだけ聞かされたので、詳しいことは分かりませんが・・・またたくまに4つの空と海に広がった“明真名”によって、“紡真名”一匹残らず殺されてしまいました。私たちは、その時水の天蓋の破れ目から北へ向かった生き残りの末だということです。」
「そうか……ありがとう、千波。」




