諜報
その静けさを破ったのは、軽いノックの音だった。
「ただいま戻りました。宿合です――この部屋ですよね?」
風音にとっては、渡りに船だ。胸をなでおろしてノブに飛びつき、新鮮な空気にありついた。
「ええ。そろそろ交代しましょう。外回りをさせてください」
「魅力的な提案だけど、そいつは無理だな。女の尻ばかり追っかけてたら、上さんに愛想を尽かされちまう」
廊下に響き渡るほど大きな声で笑ってから、肩を落とした風音を見て、宿合は「悪いな」と付け足した。
「失念していました――何か分かりましたか?」
風音に仕事がめぐってきた、そもそもの理由が、千波に張り付いていられることだった。大きく息を吸い込んで、宿合を見上げると、宿合は肩をすくめて見せてから、見当違いな報告を始めた。
「会場は外だからな。いくらでも狙い撃てる場所はあるさ。この商館のテラスだろ。向かいの宿の部屋もそうだし、見つかりにくいってだけだったら、船着き場の階段の陰でもいいわけだ」
「わざわざそんなことを調べに行かれたのですか」
暗殺など、ありえない話だった。そもそも風幡氏がシェアを伸ばせたのは、同業者が次々投獄されたからにほかならない。事を荒立てたら最後、官憲を完全に敵に回すことになる。
「まさか。一応だよ、一応。ヤケになって襲ってくる奴はいるかもしらんが、そんなの相手にもならないよ」
胸をなでおろして、聞き直す。
「いろいろ聞いて回られたのでしょう?」
この風音の一言に、宿合は待ってました、と風音の耳に囁きかけた。
「だから、調べてきたのは別なことだな。資料にもあったけど、相当評判が悪いぞ、あの娘の爺さん。やり方が強引なんだな。方々で恨みを買ってる」
二人の仕事は、まさにこの場所にいること自体だったが、報告書は細かいに越したことはない。軽く肩を叩いて、真白い廊下に差し込んだ光の合間をすり抜けてゆく宿合を、息もつかずに見送った。




