第八章 五代目の白衣
息子の俊介が白衣を着ている。
それ自体は、別に珍しい光景ではない。
私は医師で、妻の知恵も医師である。わが家では、白衣というものは、特別な衣装ではなかった。
ただし、息子が着るとなると、話は少し違う。
曾祖父の仁左衛門から数えて、五代目。
漢方医、小児科医、循環器内科医、呼吸器内科医。
そして、五代目の俊介は、消化器外科医を目指している。
もっとも、現在はまだ初期研修医である。
医師免許は取得したものの、一人前の外科医になるには、これから長い修業が待っている。
私が、
「五代目の医者だな」
と言うと、俊介は少し迷惑そうな顔をする。
「そんな大げさなものじゃないよ」
確かに、その通りだ。
本人にしてみれば、ただ医師になっただけなのである。
しかし、父親というものは、時々、子供以上に感慨深くなってしまう。
困ったものである。
俊介が幼い頃から医師を目指していたかというと、そういうわけではない。
少なくとも、私は、そう記憶している。
医師の家庭に生まれたからといって、医学に興味を持つとは限らない。
私自身がそうだった。
子供の頃に好きだったのは、自転車、バイク、時計、カメラ。
父の俊一郎が聴いていたクラシック音楽にも、哲学にも、ほとんど興味がなかった。
それなのに、結局、医師になった。
俊介も、自分なりにいろいろ考えた末、医学の道を選んだのだろう。
もっとも、親というものは、自分が何も言っていないつもりでも、知らず知らずのうちに子供へ影響を与えているらしい。
夕食の席で、私は病院の話をする。
知恵も医師だから、自然と医学の話になる。
「今日、こんな患者さんがいてね」
私が話し始める。
「それで、検査はどうだったの?」
知恵が尋ねる。
「CTでは、こうだった」
「じゃあ、あの病気も考えた?」
気がつけば、食卓が症例検討会になっている。
子供たちにしてみれば、たまったものではなかっただろう。
学校の友達の家では、夕食のときにテレビの話やスポーツの話をしている。
ところが、わが家では、肺炎や心不全の話が始まる。
しかも、両親ともに医師だから、なかなか終わらない。
俊介が医師になったのは、そんな環境のおかげなのか。
それとも、そんな環境にもかかわらず、なのか。
この点については、今でも判断がつかない。
私が医学生だった頃と、現在の医学教育はずいぶん違う。
医学の知識そのものが増えた。
検査や治療の技術も進歩した。
そして、医師に求められる能力も多様になった。
私が若い頃には、先輩の背中を見て覚えるという風潮が強かった。
もちろん、今でも経験から学ぶことは大切である。
しかし、現在は診療の標準化が進み、ガイドラインやシミュレーション教育も充実している。
患者の安全に対する考え方も、大きく変わった。
私は、俊介の話を聞きながら、時々驚かされる。
「今は、そんなふうに教えるのか」
「そうだよ」
「僕らの頃は、そんなものなかったなあ」
すると俊介が言う。
「昔は大変だったんだね」
その言い方が、何となく気に入らない。
まるで、私が明治時代の医者であるかのように聞こえる。
もっとも、曾祖父の仁左衛門は、本当に明治時代の医者だった。
そう考えると、五代という年月は、なかなか大したものである。
俊介は、消化器外科を志している。
胃や腸、肝臓、膵臓などの病気を、手術によって治療する診療科である。
私は呼吸器内科医だから、メスを持つことはほとんどない。
父は循環器内科医だった。
祖母の彩音は小児科医。
曾祖父の仁左衛門は漢方医。
こうしてみると、五代目にして、ようやく外科医が登場することになる。
もっとも、俊介はまだ外科医になったわけではない。
これから研修を重ね、手術の技術を学び、専門医としての経験を積んでいかなければならない。
その道のりは、決して平坦ではない。
手術というものは、知識だけではできない。
解剖を理解し、病態を把握し、適切な術式を選択する。
そして、実際に手を動かす。
どれほど勉強しても、手術室で初めて経験することは多い。
一つの判断が、患者の命に関わる。
その責任は重い。
私は内科医として、外科医の仕事を長年見てきた。
難しい手術を終えた外科医が、疲れた顔で病棟へ戻ってくる。
手術が成功しても、術後の合併症が起きないか、気を抜くことはできない。
夜中に呼び出されることもある。
そんな仕事を、息子が選ぼうとしている。
嬉しくもあり、心配でもある。
ある日、俊介に尋ねた。
「どうして外科なんだ?」
「手術が面白いから」
実に簡潔な答えだった。
「面白いだけじゃ、外科医は務まらないぞ」
私は、つい父親らしいことを言ってしまった。
俊介は、少し笑った。
「わかってるよ」
その言い方に、私は聞き覚えがあった。
昔、父の俊一郎から何か言われたとき、私も同じように答えていた。
「わかってるよ」
本当にわかっていたかどうかは、怪しい。
おそらく、俊介も同じなのだろう。
しかし、若い頃というものは、わかっていなくても、わかっていると言いたくなる。
私にも覚えがある。
それ以上は言わなかった。
俊介が外科を志す理由について、私は時々考える。
人間の身体を、自分の目で確かめたいのだろうか。
病気の原因を、直接取り除くことに魅力を感じるのだろうか。
あるいは、手術という技術そのものに興味があるのかもしれない。
私が若い頃、カメラの機械仕掛けに夢中になったことを思い出す。
シャッターの動き。
絞りの構造。
フィルムを巻き上げる歯車。
目に見えない仕組みを理解し、実際に手を動かして確かめる。
そんなことが、たまらなく面白かった。
もちろん、カメラを分解することと、人間の身体にメスを入れることを同列に考えてはいけない。
失敗したカメラは、修理できることもある。
しかし、人間の身体はそうはいかない。
それでも、仕組みを知りたい、技術を身につけたいという好奇心には、どこか共通するものがあるような気がする。
そう考えると、俊介は父の俊一郎より、私に似ているのかもしれない。
もっとも、俊介にそう言えば、
「そうかな」
と、あっさり否定されそうである。
親子というものは、なかなか思いどおりにならない。
初期研修医になった俊介は、さまざまな診療科を回っている。
内科、外科、救急、その他の診療科。
一つの専門分野へ進む前に、医師として必要な基本的能力を身につけるためである。
私は、その制度をよいものだと思っている。
外科医になるにしても、内科の知識は必要だ。
手術を受ける患者には、糖尿病や心疾患、呼吸器疾患を持つ人も多い。
手術がうまくいっても、肺炎や心不全を起こせば、命に関わる。
医師は、自分の専門だけを知っていればよいというものではない。
これは、私自身が長年の診療で痛感してきたことだった。
だから、俊介には、いろいろな診療科で多くのことを学んでほしいと思っている。
ただし、父親としてあれこれ言いすぎるのは、よくない。
「救急では、まずこう考えるんだ」
「肺炎の患者さんでは、ここに注意して」
「高齢者の手術では、呼吸器合併症が――」
気づくと、私は講義を始めている。
俊介は、黙って聞いている。
そして、適当なところで言う。
「うん、わかった」
これも、昔の私と同じだった。
父の俊一郎は、九十二歳になった今も元気である。
「百まで生きる」
相変わらず、それが口癖だ。
俊介が医師になったことを、父は喜んでいる。
ただし、表情にはあまり出さない。
「俊介も医者になったか」
そう言って、少しうなずく。
そして、また本を読み始める。
私が、
「五代目だよ」
と言うと、
「そうなるな」
と答える。
まったく、感動の薄い人である。
しかし、私は知っている。
父は、感情を大げさに表現するのが苦手なだけなのだ。
岡山の農村で生まれ、幼い頃に親元を離れた父。
彩音に育てられ、医師となり、母の香織と結婚した。
その息子が医師になり、さらに孫まで医師になった。
父の人生を振り返れば、これほど感慨深いことはないはずである。
もっとも、本人に尋ねても、きっとこう言うだろう。
「自分の好きな道を進めばいい」
父らしい言葉である。
俊介が医師になったことを、母にも見せてやりたかった。
母は、コロナ禍の最中に亡くなった。
病室で会うこともできず、最期の言葉を交わすこともできなかった。
あのとき、私は医師として感染対策の必要性を理解していた。
しかし、息子としては、どうしても納得できない気持ちが残った。
母は、十人きょうだいの三女として育ち、看護師になった。
手術室で働き、父と出会い、家庭を築いた。
明るく、よく笑う人だった。
そんな母が、孫の俊介が医師になった姿を見たら、どれほど喜んだだろう。
きっと、父とは正反対の反応をしたに違いない。
「まあ、俊介が本当にお医者さんになったの!」
そう言って、満面の笑顔を浮かべただろう。
そして、次にこう言う。
「ちゃんとご飯を食べてるの?」
母なら、きっとそうだった。
医師になったことより、まず孫の健康を心配する。
看護師だった母らしい。
私は、五代目という言葉を使うたびに、少し考える。
そもそも、何が五代にわたって受け継がれたのだろう。
医師免許ではない。
免許は、一人ひとりが勉強し、試験に合格して取得するものだ。
医学の知識でもない。
仁左衛門の時代と現在では、医学そのものが大きく違っている。
診療科も違う。
働く場所も違う。
それでも、五代にわたって医師という仕事が続いた。
おそらく、受け継がれたのは、もっと曖昧なものなのだろう。
人の役に立ちたいという気持ち。
知らないことを知りたいという好奇心。
病気で困っている人を、何とか助けたいと思う心。
そして、医師として働く親の姿を、子供が日常のなかで見てきたこと。
仁左衛門から彩音へ。
彩音から俊一郎へ。
俊一郎から私へ。
そして、私から俊介へ。
その間には、血のつながらない親子もいる。
だからこそ、私は、この家系が続いてきたことを、少し誇らしく思っている。
血筋だけでは、人は医師にならない。
誰かの背中を見て、自分もそうありたいと思う。
その気持ちが、世代を超えて続いてきたのかもしれない。
もっとも、俊介には、そんな家族の歴史を背負わせたくない。
五代目だからといって、立派な医師にならなければならないわけではない。
曾祖父や祖母、父や私と比べる必要もない。
自分の道を歩けばいい。
外科医になりたいのなら、外科医を目指せばいい。
途中で別の分野に興味を持ったなら、それもよい。
大切なのは、自分が選んだ仕事に責任を持ち、患者と誠実に向き合うことだと思う。
そして、医師という仕事だけに人生を使い切ってほしくない。
父は、医学だけでなく、音楽や美術、哲学を楽しんだ。
私は、カメラやバイクに夢中になった。
俊介にも、医師以外の自分を大切にしてほしい。
仕事が終われば、好きなことをする。
家族や友人と過ごす。
美しい景色を見て、感動する。
そんな時間があってこそ、医師としても豊かな人間になれるのではないだろうか。
これは、父の生き方から学んだことの一つである。
ある日、私は俊介の白衣姿を見ながら、ふと思った。
父も、若い頃にはこんなふうに白衣を着ていたのだろう。
祖母の彩音も、東京で医学を学び、やがて白衣を着て子供たちを診た。
仁左衛門の時代には、今のような白衣ではなかったかもしれない。
それでも、患者の前に立つときの気持ちは、どこか共通していたのではないだろうか。
白衣は、単なる仕事着である。
しかし、着る人にとっては、少し特別な意味を持つ。
医師としての責任。
患者から寄せられる信頼。
そして、まだ十分な力を持たない自分への戒め。
若い頃の私は、白衣を着ると、少しだけ医師らしくなった気がした。
しかし、実際には、白衣を着ただけで医師になれるわけではない。
患者を診て、失敗し、悩み、学び続ける。
そうして、少しずつ医師になっていくのである。
俊介も、これから同じ道を歩むのだろう。
私は、その姿を見守っていきたいと思っている。
父の俊一郎は、九十二歳。
私は、父が若い頃に何を考え、どんな医師になろうとしていたのか、まだ十分には知らない。
しかし、俊介が医師になった今、少しだけ父の気持ちがわかるようになった。
子供が自分と同じ職業を選ぶ。
それは嬉しい。
しかし、同時に心配でもある。
うまくやっていけるだろうか。
患者に信頼される医師になれるだろうか。
仕事に追われ、自分の人生を見失わないだろうか。
そんなことを考える。
父も、私が医師になったとき、同じような気持ちだったのだろうか。
今度、聞いてみようと思う。
ただし、父はきっと、
「そんなこと、覚えとらん」
と言うに違いない。
それでも、聞いてみたい。
九十二歳の父が、医師になった孫をどう見ているのか。
そして、自分の人生を、今どんなふうに振り返っているのか。
父は、百歳まで生きるつもりでいる。
あと八年。
まだまだ時間はある。
……と、つい思ってしまう。
しかし、人間に残された時間が、どれほどあるのかは、誰にもわからない。
医師である私は、そのことをよく知っているはずだった。
それなのに、家族のこととなると、つい忘れてしまうのである。




