第二章 ハイカラさんが通る!
祖母の彩音は、明治三十三年生まれだった。
西暦にすると一九〇〇年。
ちょうど十九世紀が終わろうとしていた頃である。
もっとも、二十一世紀に生きる私からすれば、明治も大正も、ずいぶん遠い昔のことだ。
祖母が生まれた頃、日本にはまだテレビも冷蔵庫もなかった。自動車も珍しく、電話さえ一般家庭には普及していない。
そんな時代に生まれた女性が、医師になった。
しかも、生涯独身を貫いたのである。
なかなかの人物だったと思う。
もっとも、本人にしてみれば、特別なことをしたつもりはなかったのかもしれない。
ただ、自分のやりたいことをやっただけ。
そういう意味では、少々頑固だった曾祖父の仁左衛門に、よく似ていたのだろう。
彩音が東京女子医学専門学校へ進んだのは、大正時代のことだった。
現在の東京女子医科大学の前身にあたる学校である。
当時、女性が医師になる道は、決して広く開かれていたわけではない。
女性は家庭を守り、良い妻となり、母となる。
それが当然と考えられていた時代だった。
そんななか、彩音は一人、東京へ向かった。
越中の国から東京まで、今なら新幹線を使えば2時間あまりである。
しかし、当時は汽車を乗り継ぐ長旅だった。
見送りに来た父の仁左衛門は、いつものように無口だった。
「身体に気をつけるのじゃぞ」
「はい」
「勉強を怠るな」
「はい」
「それから……」
彩音は父の顔を見た。
「何ですか」
「困ったことがあれば、手紙を書きなさい」
「はい。お父様も、お身体を大切に」
汽笛が鳴った。
彩音は窓から顔を出し、父に手を振った。
仁左衛門は、最後まで大きく手を振ることはなかった。
ただ、汽車が見えなくなるまで、ホームに立っていた。
もちろん、こんな場面を私が見たわけではない。
祖母の若い頃の話を聞きながら、勝手に想像したものである。
しかし、あの生真面目な仁左衛門なら、きっとそんな見送り方をしたに違いない。
東京での学生生活は、彩音にとって刺激に満ちたものだった。
地方の旧家で育った娘が、突然、大都会で暮らし始めたのである。
街には路面電車が走り、洋装の女性が歩き、喫茶店では学生たちが文学や政治について議論していた。
彩音も、そんな新しい時代の空気に触れた。
ただし、彼女の関心は、もっぱら医学に向いていたらしい。
解剖学、生理学、病理学、内科学。
覚えることはいくらでもあった。
当時の医学書にはドイツ語の専門用語も多く、学生たちは辞書と首っ引きで勉強していた。
彩音も例外ではなかった。
夜遅くまで机に向かい、ノートに細かな文字を書き込む。
翌朝は早く起きて学校へ向かう。
そんな生活を繰り返していた。
もっとも、いくら真面目な学生でも、息抜きくらいはしただろう。
ある日、同級生に誘われて銀座へ出かけた。
「彩音さん、あの洋服、素敵だと思わない?」
友人がショーウインドーを指さした。
そこには、当時流行し始めていた洋装の女性服が飾られていた。
彩音は、しばらく眺めた。
「そうね。でも、あれを買うお金があったら、医学書が何冊買えるかしら」
友人は呆れた。
「あなたって、本当にお医者さんになるために生まれてきたような人ね」
彩音は、少し笑った。
「そんなことはないわ。ただ、今は本が欲しいだけ」
実際にそんな会話があったかどうかはわからない。
しかし、祖母の性格を考えると、いかにも言いそうなことである。
やがて彩音は医師となり、小児科を専門に選んだ。
なぜ小児科だったのか。
その理由を、私は聞いたことがない。
父の仁左衛門が漢方医だったから、自然と医師を志したのだろう。
しかし、数ある診療科のなかで小児科を選んだ理由は、わからない。
ただ、子供が好きだったことは確かなようだ。
診療室には、いつも子供たちの泣き声が響いていたという。
当時の小児医療は、現在とは比べものにならないほど厳しいものだった。
抗菌薬も十分ではなく、予防接種も限られていた。
肺炎、赤痢、百日咳、ジフテリア。
今なら治療や予防が可能な病気で、多くの子供たちが命を落としていた。
彩音は、そんな時代の小児科医だった。
ある冬の日、母親に抱かれた幼い子供が診療所へ運ばれてきた。
高熱が続き、咳が止まらない。
呼吸も苦しそうだった。
彩音は聴診器を当て、子供の胸の音を聞いた。
「肺炎ですね」
母親の顔が青ざめた。
「先生、この子は助かるでしょうか」
彩音は、しばらく考えた。
当時、肺炎は決して軽い病気ではなかった。
しかし、母親をいたずらに不安にさせても仕方がない。
「できるだけのことをしましょう。お母さんも、しっかりしてくださいね」
彩音は、子供の小さな手を握った。
その手は、熱でひどく熱かった。
私は呼吸器内科医である。
肺炎の患者を診ることは、日常茶飯事だ。
しかし、祖母の時代の肺炎診療を想像すると、少し恐ろしくなる。
CTもなければ、パルスオキシメーターもない。
何より、現在のような抗菌薬がない。
ひょっとしたら彩音が医者になったころ、ぎりぎりストマイやサルファ剤は使えたかもしれないだ。だが、国産のペニシリン製剤が使えるようになったのは第2次大戦末期くらいだったろう。
私なら、どれだけの患者を救えただろうか。
医療技術が進歩した時代に医師となれたことを、ありがたく思う。
同時に、限られた手段しかなかった時代の医師たちには、頭が下がる。
彩音は、結婚しなかった。
生涯独身だった。
当時としては、かなり珍しい生き方である。
もちろん、縁談がなかったわけではないだろう。
旧家、庄屋の娘であり、しかも医師である。
周囲には、結婚を勧める人も少なくなかったはずだ。
「彩音さん、そろそろ良いお話はないの?」
そんなことを言われるたび、彩音は困った顔をしたのだろうか。
それとも、きっぱり断ったのだろうか。
私は後者だったような気がする。
「今は患者さんが待っていますから」
そう言って診療室へ戻ってしまう。
なかなか便利な断り文句である。
もっとも、仕事が忙しいという理由だけで、結婚しなかったわけではないと思う。
彩音にとって、医師として生きることは、単なる職業の選択ではなかった。
自分の人生を、自分で決める。
それが何より大切だったのだろう。
ただし、生涯独身だったからといって、家庭を持たなかったわけではない。
このあたりが、祖母の面白いところである。
ある日、彩音のもとに、岡山の農村から一通の手紙が届いた。
差出人は、遠縁にあたる人物だった。
そこには、五人兄弟の末っ子である少年について書かれていた。
家は貧しく、子供たち全員に十分な教育を受けさせることは難しい。
末っ子は利発で、勉強が好きだった。
できれば、もっと学ばせてやりたい。
そんな事情が、丁寧な文字で綴られていた。
彩音は、手紙を何度も読み返した。
少年の名前は、俊一郎。
まだ幼い子供だった。
自分は結婚していない。
子供を育てた経験もない。
しかも、医師としての仕事は忙しい。
普通なら、簡単に引き受けられる話ではなかった。
彩音は、しばらく考えた。
そして、返事を書いた。
「私のもとで育てましょう」
実際にどのような経緯で養子縁組の話が進んだのか、細かなことはわからない。
ただ、岡山の農村で生まれた少年が、彩音のもとへ迎えられたことは確かだった。
これが、私の父と祖母の出会いである。
少年が初めて彩音の家にやって来た日のことを、私は時々想像する。
玄関には、小さな荷物を抱えた少年が立っている。
見知らぬ土地。
見知らぬ家。
そして、見知らぬ女性。
少年は緊張した顔で、彩音を見上げた。
「あなたが俊一郎ね」
「はい」
「今日から、ここがあなたのお家ですよ」
少年は、黙ってうなずいた。
彩音は、少し考えてから尋ねた。
「お腹はすいていない?」
少年は、首を横に振った。
しかし、その直後に腹が鳴った。
彩音は思わず笑った。
「正直なお腹ね」
少年は、顔を真っ赤にした。
「さあ、ご飯にしましょう」
彩音は、少年の手を取った。
その手は、思っていたよりも小さかった。
小児科医として、何千人もの子供の手を握ってきた彩音だった。
しかし、この日握った手は、少し違っていた。
診察が終わっても、帰っていかない子供。
明日も、明後日も、その先も、同じ家で暮らしていく子供。
彩音は初めて、母親になったのである。
父は今年、九十二歳になる。
今も元気そのもので、口癖は、
「わしは百まで生きる」
である。
少なくとも、本人にはそのつもりがあるらしい。
医師である私から見ても、なかなかの健康状態だ。
父は、音楽を聴き、本を読み、興味のあることには相変わらず熱心である。
九十二歳になっても、知的好奇心は少しも衰えていない。
そんな父を見ていると、彩音の教育がどれほど大きな影響を与えたのか、考えずにはいられない。
岡山の貧しい農村に生まれた五男坊が、東京女子医学専門学校を卒業した独身の女医に育てられ、やがて循環器内科医となる。
そして、その息子が呼吸器内科医となり、さらに孫が消化器外科医を目指している。
人生というものは、なかなか予測できない。
もし彩音が、あの手紙を受け取らなかったら。
もし少年を迎える決心をしなかったら。
私は、今ここにいなかったかもしれない。
いや、少なくとも、今の私とは違う人間になっていただろう。
そう考えると、祖母には感謝しなければならない。
もっとも、彩音はそんな大げさな感謝をされても、困った顔をしたかもしれない。
「私は、ただ一人の子供を育てただけですよ」
そう言って、また診療室へ戻ってしまうような気がする。
祖母は、そういう人だったのだろう。
そして、岡山からやって来た少年は、そんな祖母のもとで育っていく。
ただし、いくら愛情深く迎えられたからといって、実の親元を離れた寂しさが、簡単に消えるわけではない。
父が後年、少し不器用で、他人に甘えることが苦手な人間になったのも、その頃の経験と無関係ではなかったのかもしれない。
その一方で、父は驚くほど多くのことに興味を持つ少年に成長した。
医学、音楽、美術、哲学、宗教。
どうやら、知りたいことが多すぎたらしい。
その好奇心は、九十二歳になった今も健在である。
そして、その一部は、どうやら私にも受け継がれている。
若い頃は、父と似ていないと言われるのが嫌だった。
しかし、最近になって、少し考えが変わってきた。
親子というものは、思っている以上に似ているのかもしれない。
もっとも、その話は、もう少し後にしよう。
まずは、岡山からやって来た、少し寂しがり屋で、妙に勉強好きだった少年の話である。




