第十章 母への近況報告
母が亡くなってから、報告したいことがずいぶん増えた。
子供たちのこと。
孫たちのこと。
父のこと。
そして、私自身のこと。
どれも、母が生きていた頃なら、電話一本で済んだ話である。
「母さん、ちょっと聞いてよ」
そう言えば、母はたいてい、
「何、どうしたの?」
と、少し弾んだ声で答えた。
こちらが大した話ではないと断っても、母は最後まで聞いてくれた。
そして、ひととおり話し終えると、決まって別のことを尋ねる。
「ところで、ちゃんとご飯は食べてるの?」
私は、もういい年をした医者である。
食事の大切さくらい、十分に理解している。
しかし、母にとって、息子はいくつになっても息子だったのだろう。
今となっては、あの何でもない質問が懐かしい。
母の最期は、あまりにもあっけなかった。
コロナ禍の最中だった。
病院では面会が厳しく制限され、家族であっても自由に病室へ入ることはできなかった。
私は医師である。
感染対策が必要なことは、誰よりも理解していたつもりだった。
病院で感染が広がれば、ほかの患者の命にも関わる。
職員を守らなければ、医療そのものが成り立たなくなる。
面会制限にも、それなりの理由があった。
私自身、医療者として同じような判断に関わってきた。
だから、病院を責めるつもりはない。
ただ、それとこれとは別の話だった。
ある日、電話が鳴った。
「亡くなられました」
そう告げられた。
短い言葉だった。
私は、しばらく返事ができなかった。
医師として何度も耳にし、自分でも何度も家族へ伝えてきた言葉である。
しかし、それが自分の母について告げられると、まるで意味が違って聞こえた。
亡くなった。
そうか。
母は、亡くなったのか。
頭では理解できた。
しかし、何かが追いつかなかった。
母の手を握ることもできなかった。
「ありがとう」と言うこともできなかった。
「また来るね」と約束することさえできなかった。
私のなかでは、母との最後の会話が、最後の会話だと知らないまま終わっていたのである。
人の死には、さまざまな形がある。
長い闘病の末に迎える死。
突然訪れる死。
家族に見守られながら、静かに息を引き取る人もいる。
私は医師として、そのいずれにも立ち会ってきた。
しかし、母の死は、そのどれとも違っていた。
母が亡くなったことは知っている。
けれども、母がこの世を去る瞬間を、私は知らない。
その間に、何か大切な一場面が抜け落ちてしまったような気がしていた。
映画の途中で、突然フィルムが切れてしまったようなものだ。
次の場面では、すべてが終わっている。
何が起きたのかは理解できる。
しかし、そこへ至る時間がない。
私は長い間、その空白を埋められずにいた。
母が亡くなってからも、日常は続いた。
病院へ行けば、患者が待っている。
会議もある。
診療もある。
医師として判断しなければならないことは、毎日のように起こる。
家に帰れば、知恵がいる。
子供たちから連絡が来る。
孫の写真が送られてくる。
忙しくしているうちは、母のことを考える時間も少なかった。
しかし、ふとした瞬間に思い出す。
例えば、スーパーで母の好きだった食べ物を見かけたとき。
昔の家族写真を見つけたとき。
誰かが母と同じような言い方をしたとき。
そんなとき、何の前触れもなく、母の声がよみがえる。
「まあ、よかったじゃない」
「そんなに心配しなくても大丈夫よ」
「ちゃんと食べてるの?」
声というものは、不思議である。
録音が残っているわけでもないのに、頭のなかでは、今でもはっきり聞こえる。
しかし、実際にもう一度聞くことはできない。
そのことに気づくたび、少し寂しくなる。
母に報告したかったことの一つが、俊介のことである。
俊介は医師になった。
現在は初期研修医として、さまざまな診療科を回っている。
将来は消化器外科医を目指している。
仁左衛門から数えれば、五代目だ。
母が生きていたら、どんな顔をしただろう。
きっと、大喜びしたに違いない。
「まあ、俊介がお医者さんになったの!」
そして、次にこう尋ねただろう。
「ちゃんと寝てるの?」
何しろ、母は看護師だった。
医師の仕事が忙しいことも、夜勤や当直が大変なことも、よく知っていた。
しかも、手術室で働いていたのである。
俊介が外科医を目指していると知れば、なおさら心配したかもしれない。
「外科は大変よ。ちゃんと身体を大切にしないと」
そんなことを言っただろう。
私は、母の声を思い浮かべながら、少し笑った。
子供たちは、それぞれ成長した。
かつて家のなかを走り回っていた子供たちが、今では自分の仕事を持ち、自分の生活を築いている。
私があれこれ口を出さなくても、ちゃんとやっている。
もっとも、親というものは、子供が何歳になっても心配するらしい。
仕事はうまくいっているだろうか。
身体を壊していないだろうか。
困ったことはないだろうか。
そんなことを考えている自分に気づくと、母の気持ちが少しわかる。
私がいい年になっても、
「ちゃんとご飯は食べてるの?」
と尋ねていた理由である。
親にとって、子供はいつまでも子供なのだ。
そして、その子供が親になって、初めて気づくことがある。
母も、こんなふうに私を心配していたのだろう。
そう思うと、もう少し優しく返事をしておけばよかったと思う。
「わかってるよ」
ではなく、
「ありがとう。ちゃんと食べてるよ」
と言えばよかった。
たったそれだけのことなのだが。
そして、孫が生まれた。
初めて孫を抱いたとき、私は少し不思議な気持ちになった。
こんなに小さな人間が、これから何十年もの人生を生きていく。
どんなことを考え、どんな人と出会い、どんな仕事をするのだろう。
そう思うと、何となく胸がいっぱいになった。
孫は、こちらの感慨などお構いなしに泣いている。
私は、慌てて抱き直す。
「どうした、どうした」
声をかけても、泣きやまない。
呼吸器内科医としては、それなりに多くの人間の呼吸を診てきた。
しかし、赤ん坊の泣き声を止める方法については、専門外である。
結局、母親に抱かれると、すぐに落ち着いた。
なるほど。
医学の知識より、母親の腕の方が役に立つこともある。
私は、少し苦笑した。
母がこの場にいたら、きっと上手に抱き上げただろう。
十人きょうだいの三女として育ち、看護師となり、子供を育てた人である。
赤ん坊の扱いなど、お手のものだったに違いない。
「俊太郎、そんなに力を入れなくても大丈夫よ」
そう言って、笑っただろう。
孫の写真が送られてくるたび、私はつい何度も眺めてしまう。
笑っている写真。
眠っている写真。
初めて立ったときの写真。
どれも、特別な出来事のように思える。
もっとも、孫本人にしてみれば、ただ立っただけである。
それなのに、周囲の大人たちは大騒ぎする。
「立った!」
「すごい!」
「写真、写真!」
考えてみれば、なかなか滑稽な光景だ。
しかし、私もその一人である。
カメラを手に、何枚も写真を撮る。
そのたびに、母のことを思い出す。
母も、私が小さかった頃、こんなふうに喜んでいたのだろうか。
私が初めて歩いたとき。
初めて言葉を話したとき。
学校へ入ったとき。
医学部に合格したとき。
母は、どんな顔をしていたのだろう。
そのすべてを、私は覚えていない。
子供というものは、親が喜んでいた時間を、案外知らないのである。
父の俊一郎は、九十二歳になった。
母に報告したいことのなかで、これも大きな一つだった。
「父さん、相変わらず元気だよ」
そう伝えたい。
父は、今も本を読み、音楽を楽しみ、興味のあることを調べている。
そして、相変わらず、
「わしは百まで生きる」
と言っている。
母が聞いたら、きっと笑っただろう。
「まあ、あなたらしいわね」
そして、少しだけ心配そうに、
「無理はしないでね」
と付け加えたかもしれない。
父は、きっと、
「わかっとる」
と答える。
私は、そんな二人の会話を思い浮かべる。
父と母は、性格がまるで違った。
父は無口で、理屈っぽい。
母は明るく、おおらかだった。
父は本を読む。
母は外へ出かける。
父は物事をじっくり考える。
母は、まず行動する。
それでも、二人は長い年月を一緒に暮らした。
今になって思う。
母は、父のどこが好きだったのだろう。
そして、父は母のどこに惹かれたのだろう。
聞いておけばよかった。
本当に、聞いておけばよかった。
父は、母が亡くなってからも、あまり寂しいとは言わない。
もともと、感情を言葉にするのが得意な人ではない。
私は、そんな父を見ながら、時々考える。
母がいなくなったことを、父はどう受け止めているのだろう。
長い年月をともに過ごした相手が、ある日突然いなくなる。
その寂しさは、息子である私の寂しさとは、また違うものなのだろう。
しかし、父は何も言わない。
私も、あまり尋ねない。
親子というものは、こういうところが不器用である。
医学の話なら、いくらでもできる。
心不全や肺炎についてなら、何時間でも議論できる。
ところが、
「母さんがいなくなって、寂しくない?」
というひと言が、なかなか口に出せない。
不思議なものである。
ある日、父と食事をしていた。
父は、いつものように元気だった。
最近読んだ本の話をし、医学の話をし、昔の知人の近況を尋ねた。
私は、俊介が研修医として頑張っていることを話した。
父は、うなずいた。
「そうか」
それだけだった。
しばらくして、父が言った。
「香織がいたら、喜んだだろうな」
私は、箸を止めた。
父の口から母の名前が出るのは、珍しいことだった。
「そうだね」
私は答えた。
父は、それ以上何も言わなかった。
また食事を続けた。
私も、何も言わなかった。
ただ、その短い言葉だけで、父が母のことを思っているのがわかった。
父は、寂しいと言わない。
会いたいとも言わない。
しかし、母がいなくなったことを、忘れているわけではない。
当たり前のことなのだが、私はそのとき、初めて少し安心した。
母に報告したいことは、まだある。
私自身のことだ。
医師として、長い年月を働いてきた。
若い頃には、目の前の患者を診ることで精一杯だった。
それが、いつの間にか後輩を指導する立場になり、病院の運営にも関わるようになった。
今では、地域の医療をどう守るかという問題まで考えている。
医師が不足している。
高齢者が増えている。
病院の経営も厳しい。
医学だけでは解決できない問題が、次々と現れる。
そんな仕事をしていると、時々、昔の父のことを思い出す。
父は、医師として働きながら、音楽や美術、哲学を楽しんでいた。
若い頃の私は、それが不思議だった。
しかし、今では少しわかる。
医師という仕事だけで、人生を埋め尽くしてはいけない。
病院の外にも、世界は広がっている。
家族がいる。
友人がいる。
美しい風景がある。
音楽がある。
そして、写真がある。
私は、そんなことを考えるようになった。
母に言えば、きっと笑っただろう。
「まあ、あなたもお父さんに似てきたわね」
昔なら、少し嫌だったかもしれない。
しかし、今なら素直に答えられる。
「そうかもしれないね」
知恵とは、今も仲良く暮らしている。
医師同士の夫婦だから、仕事の話になることも多い。
しかし、若い頃とは少し変わった。
以前は、仕事が生活の中心だった。
今では、二人で過ごす時間を、以前より大切にするようになった。
食事をする。
出かける。
景色を眺める。
何でもない話をする。
そんな時間が、案外幸せなのだと思う。
母に、そう伝えたい。
「知恵と仲良くやってるよ」
母は、きっと安心しただろう。
そして、
「それが一番よ」
と言ったに違いない。
母は、難しい哲学を語る人ではなかった。
しかし、人生で何が大切なのかを、よく知っていたような気がする。
父が本を何冊も読んで考えていたことを、母は案外、最初から知っていたのかもしれない。
私は時々、母への近況報告を、頭のなかで始める。
「母さん、聞いてよ」
そう呼びかける。
すると、不思議なことに、母の返事が聞こえるような気がする。
「何、どうしたの?」
私は、子供たちのことを話す。
孫たちのことを話す。
俊介が医師になったことを話す。
父が九十二歳になっても元気でいることを話す。
知恵と仲良く暮らしていることを話す。
そして、最後に言う。
「みんな、幸せにやっているよ」
母は、きっと笑う。
「それはよかったわね」
そう言ってくれるだろう。
それだけで、十分な気がする。
ただ、どうしても伝えられなかった言葉がある。
「ありがとう」
である。
もちろん、生きていた頃にも、何度か言ったことはある。
しかし、改めて考えると、きちんと伝えたことがあっただろうか。
私を育ててくれたこと。
医師になるまで見守ってくれたこと。
結婚を喜んでくれたこと。
子供たちを可愛がってくれたこと。
そして、父とともに、私たちの帰る場所を作ってくれたこと。
一つひとつを思い返すと、感謝しなければならないことは、いくらでもある。
しかし、母が生きていた頃には、それが当たり前だった。
母は、いつもそこにいた。
電話をすれば、話ができた。
会いに行けば、笑って迎えてくれた。
だから、わざわざ改まって感謝を伝える必要などないと思っていた。
いつでも言える。
そう思っていたのである。
しかし、その「いつでも」は、ある日突然、なくなってしまった。
医師として、私は何度も家族に伝えてきた。
「会えるうちに、会っておいてください」
「話せるうちに、話しておいてください」
「伝えたいことがあれば、今のうちに伝えてください」
正しい助言だったと思う。
しかし、自分の家族に対して、私はそれを十分に実行できなかった。
何とも情けない話である。
医師というものは、人の病気には詳しくても、自分の人生については案外不器用なのかもしれない。
もっとも、そんなことを母に話せば、きっと笑っただろう。
「何を今さら、そんな難しいことを考えているの」
そして、こう言ったかもしれない。
「元気に暮らしてくれていれば、それでいいのよ」
母なら、そう言ってくれるような気がする。
私は、昔の写真を眺めることが増えた。
子供の頃の家族写真。
父と母が並んでいる写真。
私が大学へ入った頃の写真。
どれも、今となっては大切なものだ。
写真のなかでは、母はいつまでも生きている。
笑っている。
こちらを見ている。
何十年も前の時間が、そのまま残っている。
しかし、写真を見ていると、時々、不思議な気持ちになる。
私の記憶にある母と、写真のなかの母が、少し違うのである。
私にとっての母は、いつも母だった。
しかし、写真のなかには、若い女性がいる。
私が生まれる前の母。
父と恋人同士だった頃の母。
そして、私が家を出た後、父と二人で暮らしていた頃の母。
私は、その時間をほとんど知らない。
考えてみれば、母にも、私の知らない人生があったのだ。
父と母が二人だけで出かけた旅行の話を、昔、聞いたことがある。
白骨温泉。
長野県の山あいにある温泉である。
父の車は、トヨタ・コロナだった。
私は、その車のことを覚えている。
子供の頃には、父の運転する車に乗って、いろいろなところへ出かけた。
しかし、白骨温泉へ行った日のことは、よく覚えていない。
どうやら、その頃には、私は大学へ入って家を離れていたらしい。
父と母は、二人だけで日帰り旅行を楽しんだのだという。
その話を聞いたとき、私は少し驚いた。
父と母が、二人だけで旅行する。
もちろん、夫婦なのだから、何も不思議なことではない。
しかし、息子にとっては、何となく意外だったのである。
父は、いつも真面目な顔をしていた。
母は、そんな父の隣で笑っていた。
二人が恋人同士のように旅行を楽しんでいる姿など、想像したことがなかった。
もっとも、私が知らなかっただけなのだろう。
ある休日、私は納屋の片づけをしようと思い立った。
長い間、使っていない道具が、いくつも置いてある。
古い箱。
壊れた電気製品。
昔の写真用品。
捨ててもよさそうなものばかりだが、いざ手に取ると、なかなか捨てられない。
特に、カメラ関係のものとなると、困る。
壊れていても、部品が残っていれば直せるかもしれない。
そんなことを考えてしまう。
これは、昔からの悪い癖である。
知恵には、よく言われる。
「使わないものは、少し整理したら?」
まったく、その通りだ。
しかし、使わないものと、使えないものは違う。
使えないものでも、直せば使えるかもしれない。
そして、直すこと自体が楽しい。
こうなると、片づけはなかなか進まない。
私は、古い箱を一つずつ開けながら、そんなことを考えていた。
納屋の奥には、長い間、手をつけていない棚があった。
だが、まだ私は知らなかった。
その中の小さな金属の箱が、何十年もの時間を飛び越えて、母からの返事を届けてくれる
ことを..........




