ソロバン
だが、そんな猟奇的なディテールよりも、智が何より関心を持ち、かつ安堵したのは、「男の指が、形はどうあれ五本とも切り落とされずに残っている」という厳然たる事実だった。
この状況において、指が残されていることには、極道社会における極めて重要な政治的意味がある。
彼らはあえて「詰めるための指」を綺麗に残しているのだ。
ヤクザの世界において、敵対する組織の人間によって暴力的に「切り落とされた指」は、単なる一方的な傷害、あるいは戦闘によるケガとして処理される。しかし、事態の決着をつける段階において、当事者が「自らの手で詰めた指」は、組織に対する正式な謝罪、すなわち「ワビ」の証となる。
つまり、工藤がこの男の指を一本も切り落とさずに五本とも残しているということは、浅間組としては、今回の事件の落としどころとして、相手の組織が正式に「指を詰め、金を包んでワビを入れてくる用意があるならば、それを受け入れて手打ちにしてやる」という、組織としての最低限の『度量』をあらかじめ示していることに他ならないのだ。
もし、これほどの明確な引導と度量を示された場合、今度は襲撃犯を送り込んだ(あるいは管理しきれなかった)敵対組織の側が、一体何本の指を差し出し、いくらの現金を三宝に包んで持ってくるかという問題になる。
今度はその金額の多寡が、相手組織の「メンツ」と「度量」を測る天秤となるのだ。
「これほど使い物にならなくなった、もう歩くことすらおぼつかない破綻したアホの身内のために、我が組織はメンツを保つためにこれだけの巨額の解決金を包んで、浅間組に頭を下げたのだ」
その金額の大きさが、そのまま裏社会における彼らの組織力や見栄、プライドの証明に直結する。
工藤が提示した度量と、相手組織が提示するであろう解決金が、最終的にいくらの金額で折り合い、手打ちとなるか――そんなことは、智たち共済会にとってはぶっちゃけ知ったことではないし、一円の関心もない。
重要なのは、このパイプ椅子に縛り付けられ、半死半生――というか、生物学的に「ただ死んでいない」というだけで、ヤクザとしての生命も、一人の人間としての五体満足な未来も完全に終わってしまっているこの男の、この後の『処理ルート』だ。
この男は、ひとたび浅間組と相手組織の間で手打ちが成立し、身柄が解放された後、今度は自分の所属する組へと戻されることになる。そこで、組織に多大な損害と巨額の出費を強いた最大の戦犯として、自らの身内からもう一度徹底的な「ヤキ(制裁)」を入れられることは確実だ。そして最終的には、すべての罪を一身に背負わされる形で、銃刀法違反および器物損壊、組織的建造物損壊の容疑で警察に突き出され、長い懲役へと行くハメになる。
だが、よくよく男の身体を観察してみれば、これほどボロボロに破壊された肉体だ。
これほどの重傷者を収監するとなれば、刑務所側の管理リスクも跳ね上がる。塀の中で死なれては刑務所側としても極めて面倒だし、そもそも日本の刑務所は反社を介護するための福祉施設ではない。医療刑務所への収容や、あるいは身体の重度の障害を理由に、執行停止や大幅な減刑、あるいは案外短い懲役年数だけで処理されて、早期に出所してくる可能性が極めて高かった。
長期の服役にならなければ、彼らの家族へ長期にわたって生活手当を支給し続ける必要もなくなる。
(……となれば、結果的にウチの共済会が負担するコストも、当初の予定より大幅に少なくて済むんちゃう?)
智は、凄惨な拷問部屋の光景を目の前にしながら、心の中で信じられないほど冷徹なソロバンを弾いていた。
予想される支出の激減と、今期の自分のボーナス査定の安泰を確信した瞬間、智は誰にも気づかれないようにペロリと小さく舌を出した。不謹禁にも口角が不敵に跳ね上がりそうになるのを、頬の筋肉を必死に緊張させることでどうにか耐え忍ぶ。
「工藤さん、大体の事情は分かったわ。……ほな、うちらは表の車で、鈴木さんと一緒に『次の書類の準備』でも始めとくね」
智は、隣で同じように冷徹な目で男を観察していた鈴木に視線で合図を送ると、工藤の返事を待たずに、地下室の重い鉄扉へと手をかけた。窓のない四畳半の地下室には、これから裏社会のパワーバランスを大きく揺るがすであろう、莫大な金と利権の匂いが、血生臭い空気とともに濃密に立ち込めていた。
薄明の底に沈む十一月末の早朝、神戸市東灘警察署の、凍てつくコンクリートの地べたに、その「肉塊」は物言わぬゴミのように棄てられていた。




