共済会事務所にて
三宮の喧騒から少し外れた雑居ビルの一室。
全国生活互助共済会神戸営業所のドアを開け、智と鈴木は滑り込むようにして自席に戻った。
「あー、やっぱり事務所は落ち着くわ」
鈴木が上着を脱ぎながら大きく息を吐き出す。
浅間組の事務所でのヒリつくようなやり取りを終え、ようやく戻ったホームグラウンドだったが、智に息を抜いている暇はなかった。
彼女はすぐにデスクへ向かうと、主装置付きのビジネスホンの前に立ち、慣れた手つきでボタンをプッシュしていく。
約束通り、電話機の留守番電話転送機能を設定するためだ。
正直に言えば、とっさのフォローのつもりで口にした提案だった。
これさえなければ、浅間組の重苦しい鉄扉を出た時点で本日の業務は強制終了、解散直帰と洒落込むこともできたのだ。
わざわざ事務所に這う這うの体で戻り、こんな地味な設定作業をする手間を思えば、自分の機転を少しだけ恨みたくもなる。
だが、相手は泣く子も黙る武闘派のヤクザだ。
わずかな手落ちや怠慢が、どのような逆恨みを生むか分かったものではない。
彼らのプライドを逆撫でしないためのコストだと割り切るしかなかった。
「ま、今夜に限って言えば、あっちから電話がかかってくることはないやろうけどね」
設定を完了した智が、独り言のようにつぶやく。
「そりゃそうやな。あいつらがそんなマメなわけないわ」
鈴木が苦笑しながら同意した。
はたして、その夜、転送を設定した智の携帯電話が震えることは一度もなかった。
当然の結果だ。
そもそも、一般社会の常識である「ホウレンソウ(報告・連絡・相談)」がまともにできるような人間は、最初からヤクザになんてなりはしない。
彼らがわざわざ電話で「報告」をしてくるときというのは、自分にとって都合の良い「結果」を出して、それを他人に「自慢」したいとき、あるいは責任を誰かに押し付けたいときという、極めて限定的なシチュエーションだけなのだ。
「水商売の連中に対してなら、ヤクザはめっぽう強い」
世間一般でよく言われるそのイメージは、決して間違いではない。
暴力という明確なカードを背景に、夜の街を脅しつけるのは彼らの十八番だ。
しかし、今回のケースはわけが違う。相手の組事務所に本物の銃弾をブチ込まれ、その実行犯がまだどこに潜んでいるかも分からない緊迫した状況なのだ。
そんな最中に、敵陣の縄張り内にのんきに居座り、キャバ嬢相手に
「俺が昔、あそこの組を弾いたときはよぉ……」
などと武勇伝を吹聴するような阿呆は、令和の現代には存在しない。
それは昭和の時代の、命の価値が軽かった頃の「使い捨ての鉄砲玉」の生態だ。
暴力団対策法と暴力団排除条例によって手足を縛り上げられた現代の極道において、そこまで時代錯誤な生き残り方をしている絶滅危惧種は、流石に浅間組にもいないはずだった。
翌朝、定時に出社した智は、いつも通りのルーティンで留守電の着信履歴を確認した。
画面に表示された件数は「ゼロ」。やはり動きはない。
智は小さく肩をすくめ、デスクの上にてんこ盛りになっている「日常業務」の書類の山へと意識を切り替えた。
世間を揺るがす「暴力団の抗争事件」は確かに重大なトピックであり、共済会としても見過ごせない案件ではある。
だが、だからといって一介の職員である智を、そのトラブル処理だけに専従させてくれるほど、この組織のマンパワーには余裕がない。
浅間組が沈黙している間にも、会員たちからの細々とした申請やトラブルの報告は、容赦なく積み上がっていくのだ。
智はため息を噛み殺しながら、机の上に厳然と鎮座するファイルの束を一番上のものから順にめくり、目を通し始めた。




