硝子の対価
「全国市民生活互助共済会」は、懲役に行った暴力団組員の家族(彼ら彼女らは、暴力団員ではなく「一般市民」です)の生活を互助するために設立された、「健全な」共済会です。
だから、その職員は銀行に口座も作れます。ローンも組めます。
だーって……ヤクザとちゃうもん!
はっきりと言ってしまうと、暴力団というものはメンツで食っている集団だ。ましてや彼らのように「武闘派」を看板に掲げている組織ともなれば、やられっぱなしの状態でいることは死活問題に直結する。そんな醜態を晒せば、たちまち周囲の組織に侮られ、シノギを奪われ、裏社会での商売を続けられなくなってしまうからだ。
つい先ほど、彼らの事務所の正面ガラスに弾丸が撃ち込まれた。この事態に至った以上、襲撃してきた連中を突き止めて然るべき報復を執行しなければならない。せめて敵側の事務所のガラスを同じように叩き割るくらいの手返しをしなければ、対等な「話し合い」のテーブルに着くことさえ許されないのが、彼らの生きる世界の絶対的なルールであった。
……と言うか。
そもそも智たちは、別にこの浅間組の「味方」としてここに赴いたわけではない。
現時点における智の肩書きは、ただの「事務屋」であり「保険屋」だった。襲撃の首謀者が判明していないからこそ、まずは状況を把握するために浅間組の事務所へ足を運んでいるに過ぎないのだ。
そして、絶対に失念してはならない重要な事実がある。銃弾を撃ち込んできた側の暴力団もまた、十中八九は智たちが運営する「共済会」の組合員であるという点だ。
つまり、ここへ来る道すがらに同僚と話していたとおり、組織間で抗争が発生すれば、こちらには「7年1人」の支払い義務が発生することになる。
その上で、もしも浅間組がメンツのために「報復」という名の反撃に打って出た場合、それと同等か、あるいはそれ以上の支払い義務がこちらに上乗せされる。
敵のガラスを割りに行けば、それだけで7年分のペナルティ。
もしそこに浅間組幹部の明確な指示があったと認定されれば、その幹部の身代金分も加算される。
さらに、警察の目を出し抜いて派手に立ち回ったとなれば、使用者責任として組長にまで累が及ぶのは避けられない。
別に、それらの出費によって「共済」の経営自体が傾くとか、智が所属する営業所が潰れるといった致命的な事態が起こるわけではなかった。この共済会が蓄えている資本金や、プールされている裏金の総額は、下手をすればそこいらの都市銀行を凌駕する規模だからだ。
しかし、組織の懐は痛まなくとも……智自身のボーナスの査定には、大いに響く。
事務所の重い扉を出る前に、営業所の所長へしつこいほど確認してきたのは、自分の懐が傷つかずに済む「査定の防衛ライン」がどこにあるか、という一点のみだった。
しかし、ここで自分が懐事情やボーナスの心配をしていると露見すれば、智の正面にドカリと座っている暴力団幹部は間違いなく激怒するだろう。
だからこそ、ここからの立ち回りが重要になる。
神妙な面持ちで彼らの怒りに寄り添う演技をしながら、巧みに相手の意図を汲み取って相槌を打ち、気分を良くさせていく。その上で、最終的にはこちらの思い通りの着地点へと誘導する。
この緊迫した空気の中で行われる心理戦は、もはや堅気の保険屋の仕事というよりも、夜の街のキャバクラで繰り広げられる接客術に限りなく近かった。
余談になるが、こうして暴力団を相手にする特殊な商売を続けていると、智自身も勉強を兼ねてキャバクラや高級ソープに足を運ぶ機会が増える。そこで働く女性たちと会話を交わすことも少なくない。
その席で、彼女たちが男を転がすための手練手管をそれとなく聞き出すこともある。
超一流と呼ばれる彼女たちに共通しているのは、身体を寄せ合うような露骨なボディタッチなどよりも、言葉のキャッチボール、すなわち「トーク」を極限まで重視している点だ。
ナンバーワンと称されるホステスや、銀座の高級クラブを仕切るママなどは、艶っぽい会話の技術だけで百戦錬磨の男たちを満足させ、大金を落とさせている。
彼女たちは、安易に身体を切り売りして「営業」を行っているような同業者を、内心ではものすごく「下」に見下していた。言葉だけでコントロールしてこそプロだ、という強烈な自負があるのだ。智も今、まさにその技術の真価を試されている。
「逆に、や。そっちはどこまで手がかりを掴んでるん?」
煙草の煙が煙る応接室で、智が静かに問いかける。
すると、正面に座る浅間組の男は、ドスの利いた声を張り上げ、口から不快な泡を飛ばしながら怒鳴りつけてきた。
「それがわかっとったら、とっくに敵のツラに突っ込んでるわ!」
怒声とともに灰皿が叩きつけられる。智は眉ひとつ動かさず、その怒気を受け流しながら、次の一手を冷徹に計算し始めていた。




