第97話 浅い五人
厳島北岸の海は、底が近かった。
岸から伸びた白い砂地が、水面の下に透けている。その両側だけ色が濃く、細い泡が砂の縁に沿って沖へ流れていた。
凪は桟橋の端にしゃがみ、右手を水へ入れた。
表面には、ほとんど押す力がない。指を深くすると、砂地の右側から細い水が当たった。左側にも流れはあるが、少し弱い。
昨日より、海が岸へ近い。
砂地の上を越える水も増えている。試合が進めば、左右に分かれた細い潮流は、途中でつながる。
「凪さん」
遥香に呼ばれ、凪は水から手を上げた。
ベンチの前には、芽衣、七海、心春、陽、結が集まっていた。
花と渚は椅子に座ったまま。優奈も端末を手に、西条付属の選手を見ている。
結が五人を順番に見た。
「三年生、陽とうちだけで大丈夫なん?」
「大丈夫です」
「決勝よ?」
「はい」
「凪も花も渚も出んの?」
「第2ピリオドまでは休んでもらいます」
花が顔を上げた。
「うち、行けるよ」
「行けることは知っています」
「じゃあ」
「第3ピリオドからお願いします」
花は何か言いかけたが、左肩に掛けたタオルを右手で直した。
渚もふくらはぎを押したまま、海を見ている。凪が立ち上がると、右腿の奥が張った。
結はまだ先発の五人を見ていた。
「ほんまに、この五人で?」
「地区大会の前に、何度も違う組み合わせで練習しました」
遥香は七海へ顔を向ける。
「最初は七海さんが動いてください。ただし、四つ全部は追わないでください」
「陽先輩が、捨てるやつ決めるんじゃろ」
「はい」
陽が頷いた。
「うちを見る?」
「見る」
「なら大丈夫」
「心春さんは、七海さんについていかないでください」
心春が瞬きをした。
「後ろにおらんでええの?」
「七海さんが戻れる場所を残してください」
「戻ってこんかったら?」
「次に空いた人が使います」
心春は芽衣を見る。
「芽衣ちゃん?」
「うちかもしれんし、陽先輩かもしれん」
「決めんの?」
「海に入ってから決める」
心春は少し考えてから頷いた。
「ほんまに、色々やったやつじゃね」
結が息を吐く。
「はい。今の海には、この五人が合います」
向かい側では、西条付属高校が準備を終えていた。
あかりがゴーグルを下ろす。美咲は水際で膝を曲げ、足元の砂を確かめている。残る三人も、同じくらいの間隔を空けて並んでいた。
昨日は、同じ宿泊施設の前で手を振った。
今日は、どちらも手を上げない。
遥香が優奈の隣へ移った。
「優奈さんは、あかりさんを見てください」
「あかりさんの三回を見ますか」
「三回目は、地区予選で変えられました」
「そのあと?」
「何を変えたか見てください。あかりさんが浮上したら、美咲さんへ替えて構いません」
「一人ずつでいいですか」
「はい。一人ずつでお願いします」
優奈が計測を始めた。
七海が水際から振り返る。
「凪先輩。今、どっち?」
凪は白い砂地の右側を指した。
「右。左より少し速い」
「途中で変わる?」
「水が上がったら、砂の上を越える」
「じゃあ、今だけね」
「うん」
芽衣たち四人が海へ入り、結は水面から区画中央へ進んだ。
砂地の上では足が海底へ近づき、半歩横へずれると腰まで沈む。同じ区画の中で、深さも水の向きも違った。
西条付属の五人も入水する。
開始の笛と同時に、四つの潮核が区画へ放たれた。
七海は中央へ向かいかけ、陽の左手が沖を示したのを見て進路を変えた。捨てる一つは追わない。右側の溝へ入った潮核だけを追い、砂地の縁に沿って先に掴む。
胸と手足へ赤い発光ラインがついた直後、西条付属の選手が正面から入り、七海の右腕へ触れた。七海は一秒目で潮核を離す。赤い光が消え、潮核は細い流れへ乗った。
七海の真後ろではなく、少し内側に心春が残っていた。両手へ潮核を収めた心春へ相手が向きを変えるが、芽衣はあかりの前にいて遠い。
心春は芽衣を追わなかった。砂地の縁に沿って自分で進み、左足へ触れられると、一秒目で潮核を浅い側へ離した。
砂地の上へ出た潮核が速度を落とす。
そこへ芽衣が下から入り、赤い発光ラインを引き継いだ。
正面にはあかりがいる。
芽衣は避けず、ゴールゾーンへ入る角度を残したまま近づいた。あかりの手が胸へ届く前に潮核を下へ離し、陽がその端へ触れて軌道を右へ変える。
赤い発光ラインが一瞬だけつき、消えた。
美咲が先に入る。
三原中央の最初の攻撃は、ゴールゾーンへ届く前に終わった。
青い発光ラインをつけた美咲は、すぐには攻めなかった。岸寄りの溝へ入り、潮核を一度離す。砂地の横で止まった位置から半歩深く潜り直し、もう一度触れると、潮核は前より長く進んだ。
その先で待っていたあかりが受け取る。
芽衣が戻り、あかりの右足へ触れた。あかりは一秒目で水を蹴り、優奈の指も同時に動く。地区予選では、ここから同じ幅が続いた。
二回目はなかった。
あかりは潮核を右へ離した。受けたのは美咲ではなく、浅い砂地の外側にいた三人目だった。
陽が正面へ入り、結が水面から右を示す。心春は空いた場所へ戻り、七海も沖側から中央へ向きを変えた。
三人目が美咲へ流した潮核は、心春が間に残っていたため届かない。砂地の端で失速したところへ七海が先に触れ、ゴールゾーンから外へ軌道を変えた。
両校とも、最初の攻撃では得点できなかった。
残る潮核へ五人が散る。
「中央残す! 沖は行かんでええ!」
結の声を受け、陽は中央へ戻った。七海も目の前の潮核を追わず、心春が残した場所を一度通ってから別の溝へ入り直す。
芽衣はあかりの近くを離れなかった。あかりが潮核を持てば発光ラインへ触れ、押し返せなくても二秒になる前に手放させる。
西条付属も、同じ順番では動かなかった。
美咲が一度水面へ上がり、優奈の視線があかりから移る。息を吸って戻った美咲は、さっき潮核を測った深さへ向かわず、あかりの前へ入った。
代わりに、あかりが美咲のいた場所へ沈む。
「入れ替わりました」
優奈が言った。
美咲が潮核を受けると、芽衣が右足へ接触した。美咲は前へ進まず、一秒目で潮核を下へ離す。
あかりが受ける前に、陽が端へ触れて砂地へ寄せた。巻き上がった砂が白い線を隠し、潮核の輪郭も一度消える。
心春は見えなくなった潮核へ手を伸ばさなかった。
砂が流れる方を見る。
先に水中から出てきた潮核を、ゴールゾーンから遠ざけるように押した。その先へ七海が回り、西条付属の選手より先にもう一度外へ流す。
攻撃は切れた。
ベンチの凪には、入れ替わった二人が残したものが見えていた。
美咲があかりの前へ入り、あかりが美咲のいた深さへ沈む。人は替わっているのに、砂地へ入る時の肩の角度は同じだった。
位置だけを交換しているのではない。
海へ入る動きまで、次の人へ渡している。
凪は右側の溝を見る。
開始前より、泡の列が砂地へ寄っていた。
試合が進むにつれ、白い底が見える時間が短くなる。選手が蹴るたびに砂が舞い、砂地の上で止まっていた潮核も、少しずつ先へ動くようになった。
三原中央は、最初に決めた順番へ戻らなかった。
芽衣が先に動いた時は、七海が戻る場所を残した。心春があかりの進路へ入り、陽が最後の潮核へ向かう。
西条付属も、浮上した選手を元の場所へ戻さない。美咲が測った流れを別の選手が使い、あかりが空いた深さへ入る。
役割を渡すたびに、両校の形が変わった。
それでも、ゴールゾーンまでの最後の半歩は空かなかった。
第1ピリオド終了の笛が鳴るまで、スコアは動かなかった。
スコア:西条付属高校 0-三原中央高校 0
芽衣たちが水面へ上がる。
結は岸へ戻る前に、区画中央を見た。
「砂の線、沈んどる」
開始前には水面のすぐ下にあった白い砂地が、少し深くなっている。左右に分かれていた泡も、砂地の上で混じり始めていた。
桟橋へ上がった芽衣は、息を整えながら西条付属を見る。
あかりは、美咲の隣にいない。
美咲も、最初に潮核を測っていた位置には戻っていなかった。
「三回目はありませんでした」
優奈が計測画面を見たまま言った。
「あかりさんは一回で離して、別の人へ渡しました。美咲さんも、浮上した場所へ戻っていません」
「戻る場所が違う?」
結が聞く。
「はい。戻るたびに替えています」
遥香は区画と西条付属の五人を見比べた。
凪の目には、砂地へ入る時の肩だけが残っている。
人が替わっても、同じ角度だった。
区画中央で、二つに分かれていた泡の列がつながった。
覚えたばかりの海が、もう一段深くなっていた。
西条付属の五人も、さっきまでいた場所には戻らなかった。




