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潮球  作者: カミツキ
3年目の海

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96/101

第96話 ここまで、来た

 試合終了の笛が止んでも、結の声だけが水面に残っていた。


「決勝じゃ!」


 両手を上げたまま、水を二度叩く。


「うちら、決勝行くんじゃ!」


 跳ねた水が、近くに浮いていた花の顔へかかった。


「結、近い」

「宮島に勝ったんよ!」

「分かっとる」


 花は水面で笑ったあと、仮設桟橋へ腕を伸ばした。

 一度では体が上がらない。

 右腕へ力を入れ直し、腹を桟橋の端へ乗せる。立ち上がろうとして、濡れた床へ片膝をついた。


 凪も岸へ向かった。

 右足で水を蹴ると、腿の奥が縮んだ。力を抜き、左足だけで残りの距離を進む。


 渚はゴーグルを上げたまま、水面で息を吸っている。岸から差し出された手を掴んでも、すぐには上がらなかった。


「渚、大丈夫?」

 芽衣が腕を引く。

「……大丈夫」

 渚はもう一度息を吸った。

「ちょっと、足が上がらんだけ」

「それ、大丈夫じゃないじゃろ」


 結は自分で桟橋へ上がると、濡れたまま花の隣へ座った。


「でも決勝じゃね」

「まだ言うん」

「何回でも言う」


 花の肩へ腕を回そうとして、途中で止めた。


「重い?」

「びしょびしょ」

「花もじゃん」

 三谷の足音が、桟橋の上を近づいてきた。

「はしゃぐんは、荷物を積んでからにせえ」

 結が振り返る。

「もう片付けるん?」

「当たり前じゃ。急げ」


 三谷は濡れたドライスーツと、開いたままの道具バッグを順番に指した。


「次は決勝じゃ。厳島へ行くぞ」

 結の口が開いた。

「宮島高校に勝って、今度は宮島行くん?」

「ドライスーツから片付けろ」

「聞いとる?」

「聞いとるけ、早うせえ」

 結は立ち上がった。

「決勝じゃけね」

「それはもう聞いた」


 宮島高校の選手たちは、向かい側で片付けを始めていた。


 宮内も濡れた髪を後ろへ払っている。凪と目が合うことはなかった。


 区画中央の泡は、まだ同じ場所に残っている。

 凪は右足へ体重を乗せた。腿の奥が固くなり、荷物を持ち上げる前に足の位置を半歩変えた。

 大会運営のマイクロバスが、大三島の駐車場を出た。


 結は乗るまで話し続けていた。


「決勝の相手、どこじゃろ」

「もう一つの準決勝、終わっとる?」

「厳島って、鹿おるとこじゃろ」


 シートベルトを締めてから、十分も経たなかった。


 結の頭が、花の肩へ落ちている。


 花も窓へ寄りかかり、目を閉じていた。結の頭を戻そうとはしない。

 通路を挟んだ反対側では、渚が座席へ深く沈んでいた。膝の上に置いたタオルが、半分だけ床へ落ちている。


 凪は右足を前へ伸ばしたまま、道具バッグを抱えていた。

 窓の外で、島の斜面と海が交互に過ぎていく。橋へ入ると水面が遠くなり、細い船の跡だけが下に残った。


 どこへ流れるかを考える前に、目が閉じた。


 次に目を開けた時、バスは信号で止まっていた。

 隣の七海が、窓へ額を近づけている。


「まだ着かんの?」

「起きたばっかりじゃろ」


 心春が答えた。


 前の席では、優奈の膝にノートが開かれていた。

 宮内の名前。その周囲に四つの丸。右から左へ伸びる短い矢印。

 ペンはページの上に置かれたまま、優奈の指から離れている。顔は窓の方へ傾き、目を閉じていた。


 遥香だけが端末を見ていた。


 大会公式アプリの画面。


【地区大会 準決勝】

【勝者 西条付属高校】


 芽衣も、通路の向こうから画面を見ていた。

 遥香の指が画面を閉じる。


「西条付属ですか」

「……うん」


 芽衣は前の座席へ目を戻した。

 眠っている花。その肩に寄りかかった結。右足を伸ばした凪。


「みんな、起こす?」

「まだ大丈夫です」

 遥香は端末を鞄へ入れた。

「着いてからで構いません」

 芽衣は小さく頷いた。


 バスが動き出す。


 誰も、決勝の話をしなかった。

 宮島口へ着いた頃には、日が傾いていた。


 バスから降りると、凪の右足がすぐには伸びなかった。座席の背へ手を置き、膝を二度曲げてから荷物を持つ。


 花も左肩へバッグを掛けようとして、右へ持ち替えた。渚は道路脇の柵に手を置き、ふくらはぎを伸ばしている。


「筋肉痛、もう来た」

「早すぎん?」


 結が渚の隣へ並んだ。

 三谷が乗船券を配る。


「船で寝るなよ。すぐ着くけ」

「寝んよ」

 結は券を受け取った。

「さっきも寝とったじゃろ」

「花が寄りかかってきたんよ」

「逆じゃろ」


 フェリーのエンジンが低く鳴った。

 船体が岸壁から離れる。


 宮島口の建物が遠ざかり、白い航跡が水面を二つに割った。風が、眠っていた顔へ当たる。

 結が甲板の手すりへ近づいた。

 海の向こうに、島が立っている。


 山の緑が水際まで下り、その手前に屋根が並んでいた。朱色の大鳥居が、岸から少し離れた場所に見える。


 近づくにつれて、桟橋を行き交う人の姿が増えた。湿った潮の匂いへ、木と土の匂いが混じる。夕方の空気が腕へまとわりついた。


 山の影。

 白い船。

 岸へ返る細い波。


 宮内戦の区画にはなかった水が、フェリーの周囲で何度も重なっている。


 凪は手すりに触れた。

 船が揺れると、左足から力を入れた。


「ほんまに、ここまで来たんじゃね」


 結が島を見たまま言った。


 花が隣へ立つ。

 左肩は動かさず、右手だけを手すりへ置いた。


「ここまで来たら、絶対優勝して帰るよ」

「鹿も見て帰ろうや」

「先に決勝」

「優勝して、鹿」

「それならええよ」


 フェリーが速度を落とした。

 桟橋から鐘の音が聞こえる。観光客の話し声と、船員の案内が近づいてきた。


 三谷が後ろから声をかける。


「降りたら、そのまま施設へ行くぞ。寄り道は禁止じゃ」

 結が大鳥居から顔を戻した。

「鹿も?」

「明日が終わってからにせえ」

「優勝したら?」

「歩ける足が残っとったらな」


 船が桟橋へ触れた。

 足元から、短い振動が上がる。

 大会指定の宿泊施設は、桟橋から少し離れた坂の途中にあった。


 玄関前には、濡れた道具バッグが並んでいる。


【西条付属高校】


 白い札に、黒い文字が書かれていた。

 その横で、あかりがタオルを頭に載せている。髪の先から、まだ水が落ちていた。

 美咲は片腕を胸の前へ引き、肩を伸ばしている。


 芽衣が先に足を止めた。


「あかりちゃん」

 右手を上げる。

 あかりもすぐに手を振り返した。

「芽衣ちゃん」


 遥香の右手も、胸の高さまで上がった。

 指が開く前に止まる。

 そのまま、小さく頭を下げた。

 あかりが遥香を見る。


「手、振ってええのに」

「明日は対戦相手なので」

「今日まではええじゃろ」


 遥香は上げかけた右手を見た。

 少し置いてから、小さく振った。

 美咲が腕を下ろす。


「そこ、迷うんじゃね」

「遥香じゃけね」


 花が荷物を肩から下ろした。

 あかりは芽衣から、三原中央の全員へ目を移した。


「また試合するとは思っとったけど」

 背後に並ぶ道具バッグを一度見る。

「決勝で会うとは思わんかったね」

 芽衣も西条付属の荷物を見た。

「でも、来ました」

 あかりの口元が少し上がる。

「うん。うちも来た」


 美咲が花を見る。


「明日」

「うん」


 花は左肩を回そうとして、途中で止めた。


「負けんよ」

「こっちも」


 施設の扉が開き、西条付属の選手が中から顔を出した。


「あかり、部屋決まったよ」

「今行く」


 あかりは芽衣へもう一度手を上げた。

 美咲も自分のバッグを持つ。


 二人が施設へ入っていく。

 扉が閉まる前、あかりがもう一度、芽衣へ手を振った。


 あの手は、やっさの列で遅れた遥香の腕を横から引いた。

 同じ太鼓を聞き、同じ足を出した。


 美咲は肩を伸ばしたまま、施設の奥へ消えた。


 最初に会った屋内施設では、機械の潮流が止まっても、西条付属の選手たちだけが動き続けていた。


 大久野島では、分からなかった岩礁の流れを、試合の中で覚えた。


 今年の佐木島では、三原中央が使うはずだった浅い潮流へ、美咲が先に入った。


 海が近くにない。


 公式戦は、すべて海で行われる。


 勝てないと言われていた西条付属は、海へ来るたびに使えるものを増やした。

 地区予選では、三原中央、尾道、忠海中央に勝った。


 準決勝も勝ち、ここにいる。


 三原中央は、西条付属に一度も勝っていない。


「凪先輩」


 芽衣の声で、凪は顔を上げた。

 道具バッグの反対側の持ち手を、芽衣が持っている。


「一緒に持ちます」

「うん」


 二人で持ち上げる。


 右腿の奥が固くなり、凪の足が半歩遅れた。

 明日、西条付属は、その半歩を待ってくれない。


 花は左肩を押さえ、右手で自分のバッグを引いた。

 渚は玄関前の段差で一度止まる。息を吸ってから、右足を上げた。


 あかりが扉の向こうから、芽衣へ手を振った。


 芽衣も振り返す。


 遥香も、今度は止めなかった。


 一緒に練習した。


 やっさの列で踊った。


 海では、何度も負けた。


 明日、初めて立つ決勝で、また戦う。

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