第96話 ここまで、来た
試合終了の笛が止んでも、結の声だけが水面に残っていた。
「決勝じゃ!」
両手を上げたまま、水を二度叩く。
「うちら、決勝行くんじゃ!」
跳ねた水が、近くに浮いていた花の顔へかかった。
「結、近い」
「宮島に勝ったんよ!」
「分かっとる」
花は水面で笑ったあと、仮設桟橋へ腕を伸ばした。
一度では体が上がらない。
右腕へ力を入れ直し、腹を桟橋の端へ乗せる。立ち上がろうとして、濡れた床へ片膝をついた。
凪も岸へ向かった。
右足で水を蹴ると、腿の奥が縮んだ。力を抜き、左足だけで残りの距離を進む。
渚はゴーグルを上げたまま、水面で息を吸っている。岸から差し出された手を掴んでも、すぐには上がらなかった。
「渚、大丈夫?」
芽衣が腕を引く。
「……大丈夫」
渚はもう一度息を吸った。
「ちょっと、足が上がらんだけ」
「それ、大丈夫じゃないじゃろ」
結は自分で桟橋へ上がると、濡れたまま花の隣へ座った。
「でも決勝じゃね」
「まだ言うん」
「何回でも言う」
花の肩へ腕を回そうとして、途中で止めた。
「重い?」
「びしょびしょ」
「花もじゃん」
三谷の足音が、桟橋の上を近づいてきた。
「はしゃぐんは、荷物を積んでからにせえ」
結が振り返る。
「もう片付けるん?」
「当たり前じゃ。急げ」
三谷は濡れたドライスーツと、開いたままの道具バッグを順番に指した。
「次は決勝じゃ。厳島へ行くぞ」
結の口が開いた。
「宮島高校に勝って、今度は宮島行くん?」
「ドライスーツから片付けろ」
「聞いとる?」
「聞いとるけ、早うせえ」
結は立ち上がった。
「決勝じゃけね」
「それはもう聞いた」
宮島高校の選手たちは、向かい側で片付けを始めていた。
宮内も濡れた髪を後ろへ払っている。凪と目が合うことはなかった。
区画中央の泡は、まだ同じ場所に残っている。
凪は右足へ体重を乗せた。腿の奥が固くなり、荷物を持ち上げる前に足の位置を半歩変えた。
大会運営のマイクロバスが、大三島の駐車場を出た。
結は乗るまで話し続けていた。
「決勝の相手、どこじゃろ」
「もう一つの準決勝、終わっとる?」
「厳島って、鹿おるとこじゃろ」
シートベルトを締めてから、十分も経たなかった。
結の頭が、花の肩へ落ちている。
花も窓へ寄りかかり、目を閉じていた。結の頭を戻そうとはしない。
通路を挟んだ反対側では、渚が座席へ深く沈んでいた。膝の上に置いたタオルが、半分だけ床へ落ちている。
凪は右足を前へ伸ばしたまま、道具バッグを抱えていた。
窓の外で、島の斜面と海が交互に過ぎていく。橋へ入ると水面が遠くなり、細い船の跡だけが下に残った。
どこへ流れるかを考える前に、目が閉じた。
次に目を開けた時、バスは信号で止まっていた。
隣の七海が、窓へ額を近づけている。
「まだ着かんの?」
「起きたばっかりじゃろ」
心春が答えた。
前の席では、優奈の膝にノートが開かれていた。
宮内の名前。その周囲に四つの丸。右から左へ伸びる短い矢印。
ペンはページの上に置かれたまま、優奈の指から離れている。顔は窓の方へ傾き、目を閉じていた。
遥香だけが端末を見ていた。
大会公式アプリの画面。
【地区大会 準決勝】
【勝者 西条付属高校】
芽衣も、通路の向こうから画面を見ていた。
遥香の指が画面を閉じる。
「西条付属ですか」
「……うん」
芽衣は前の座席へ目を戻した。
眠っている花。その肩に寄りかかった結。右足を伸ばした凪。
「みんな、起こす?」
「まだ大丈夫です」
遥香は端末を鞄へ入れた。
「着いてからで構いません」
芽衣は小さく頷いた。
バスが動き出す。
誰も、決勝の話をしなかった。
宮島口へ着いた頃には、日が傾いていた。
バスから降りると、凪の右足がすぐには伸びなかった。座席の背へ手を置き、膝を二度曲げてから荷物を持つ。
花も左肩へバッグを掛けようとして、右へ持ち替えた。渚は道路脇の柵に手を置き、ふくらはぎを伸ばしている。
「筋肉痛、もう来た」
「早すぎん?」
結が渚の隣へ並んだ。
三谷が乗船券を配る。
「船で寝るなよ。すぐ着くけ」
「寝んよ」
結は券を受け取った。
「さっきも寝とったじゃろ」
「花が寄りかかってきたんよ」
「逆じゃろ」
フェリーのエンジンが低く鳴った。
船体が岸壁から離れる。
宮島口の建物が遠ざかり、白い航跡が水面を二つに割った。風が、眠っていた顔へ当たる。
結が甲板の手すりへ近づいた。
海の向こうに、島が立っている。
山の緑が水際まで下り、その手前に屋根が並んでいた。朱色の大鳥居が、岸から少し離れた場所に見える。
近づくにつれて、桟橋を行き交う人の姿が増えた。湿った潮の匂いへ、木と土の匂いが混じる。夕方の空気が腕へまとわりついた。
山の影。
白い船。
岸へ返る細い波。
宮内戦の区画にはなかった水が、フェリーの周囲で何度も重なっている。
凪は手すりに触れた。
船が揺れると、左足から力を入れた。
「ほんまに、ここまで来たんじゃね」
結が島を見たまま言った。
花が隣へ立つ。
左肩は動かさず、右手だけを手すりへ置いた。
「ここまで来たら、絶対優勝して帰るよ」
「鹿も見て帰ろうや」
「先に決勝」
「優勝して、鹿」
「それならええよ」
フェリーが速度を落とした。
桟橋から鐘の音が聞こえる。観光客の話し声と、船員の案内が近づいてきた。
三谷が後ろから声をかける。
「降りたら、そのまま施設へ行くぞ。寄り道は禁止じゃ」
結が大鳥居から顔を戻した。
「鹿も?」
「明日が終わってからにせえ」
「優勝したら?」
「歩ける足が残っとったらな」
船が桟橋へ触れた。
足元から、短い振動が上がる。
大会指定の宿泊施設は、桟橋から少し離れた坂の途中にあった。
玄関前には、濡れた道具バッグが並んでいる。
【西条付属高校】
白い札に、黒い文字が書かれていた。
その横で、あかりがタオルを頭に載せている。髪の先から、まだ水が落ちていた。
美咲は片腕を胸の前へ引き、肩を伸ばしている。
芽衣が先に足を止めた。
「あかりちゃん」
右手を上げる。
あかりもすぐに手を振り返した。
「芽衣ちゃん」
遥香の右手も、胸の高さまで上がった。
指が開く前に止まる。
そのまま、小さく頭を下げた。
あかりが遥香を見る。
「手、振ってええのに」
「明日は対戦相手なので」
「今日まではええじゃろ」
遥香は上げかけた右手を見た。
少し置いてから、小さく振った。
美咲が腕を下ろす。
「そこ、迷うんじゃね」
「遥香じゃけね」
花が荷物を肩から下ろした。
あかりは芽衣から、三原中央の全員へ目を移した。
「また試合するとは思っとったけど」
背後に並ぶ道具バッグを一度見る。
「決勝で会うとは思わんかったね」
芽衣も西条付属の荷物を見た。
「でも、来ました」
あかりの口元が少し上がる。
「うん。うちも来た」
美咲が花を見る。
「明日」
「うん」
花は左肩を回そうとして、途中で止めた。
「負けんよ」
「こっちも」
施設の扉が開き、西条付属の選手が中から顔を出した。
「あかり、部屋決まったよ」
「今行く」
あかりは芽衣へもう一度手を上げた。
美咲も自分のバッグを持つ。
二人が施設へ入っていく。
扉が閉まる前、あかりがもう一度、芽衣へ手を振った。
あの手は、やっさの列で遅れた遥香の腕を横から引いた。
同じ太鼓を聞き、同じ足を出した。
美咲は肩を伸ばしたまま、施設の奥へ消えた。
最初に会った屋内施設では、機械の潮流が止まっても、西条付属の選手たちだけが動き続けていた。
大久野島では、分からなかった岩礁の流れを、試合の中で覚えた。
今年の佐木島では、三原中央が使うはずだった浅い潮流へ、美咲が先に入った。
海が近くにない。
公式戦は、すべて海で行われる。
勝てないと言われていた西条付属は、海へ来るたびに使えるものを増やした。
地区予選では、三原中央、尾道、忠海中央に勝った。
準決勝も勝ち、ここにいる。
三原中央は、西条付属に一度も勝っていない。
「凪先輩」
芽衣の声で、凪は顔を上げた。
道具バッグの反対側の持ち手を、芽衣が持っている。
「一緒に持ちます」
「うん」
二人で持ち上げる。
右腿の奥が固くなり、凪の足が半歩遅れた。
明日、西条付属は、その半歩を待ってくれない。
花は左肩を押さえ、右手で自分のバッグを引いた。
渚は玄関前の段差で一度止まる。息を吸ってから、右足を上げた。
あかりが扉の向こうから、芽衣へ手を振った。
芽衣も振り返す。
遥香も、今度は止めなかった。
一緒に練習した。
やっさの列で踊った。
海では、何度も負けた。
明日、初めて立つ決勝で、また戦う。




